コラム|NHKドラマ「STRANGER〜上海の芥川龍之介〜」に寄せて -4-

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劇団ののメンバーの田島裕人くんが、2019年末に放送されたNHKスペシャルドラマ「STRANGER 〜上海の芥川龍之介〜』について、7つのキーワードから様々に考察する、全3回の大型コラム企画!

田島裕人

第3回目で完結したはずですが、もう1回分を付け足したいと思います。ここからは、田島くんより少し性格がねじくれている演出にバトンタッチです。偏見に満ち溢れている、全て個人の感想です! あんまり振り返らずに、喋るように書いていおります。

※以下、ドラマのネタバレ注意!

Topic 8:芥川はルールーに本を与えるでしょうか

第3回のコラムのお話を元に議論を展開しているので、まだお読みでないかたは、ぜひご覧ください。

芥川さんはルールーを気にいるでしょうか

さて。

前回の田島くんの記事でご紹介した、物語の最大のキーパーソン、ルールー。

大変魅力的な人物であることは言うまでもありません。

では、何故、魅力的に感じるのでしょうか。

それは、中国を訪れた芥川、延いては私たち視聴者が彼を魅力的に感じるような仕掛けが、いくつも、巧みに用意されているからです。

そこにはいくつか賛否両論の差別的な観点を含むポイントもありますが、それらに目を背けずに慎重に見て行きたいと思います。

ルールーの恵まれない境遇

ルールーが滞在しているのは、妓楼です。

これは語るのが難しいポイントですね。

親に売られたのか、親を戦で亡くしたのか。「妓楼に身を置くしかない人」ということで、何か不幸な生い立ちなのかなということを思わせます。現代よりも、身分や出自の差がありますし、経済的にも困難を抱えているでしょうから、そんなに簡単にここから出て行って他の仕事に就く、つまり他の生き方を実現することはなかなか困難だと想像できます。また、若くして身体を酷使しますし、病気とも隣り合わせの職業ですね。

このドラマの中では、芥川龍之介作『アグニの神』に登場する呪術を使うインド人の老婆を、妓楼の主である林黛玉に重ね合わせるようなフラッシュ映像が出て来ます。ただしそれは芥川が見ている夢や妄想のようなもので、実際は、林黛玉が妓楼の女性たちやルールーを虐待したり不当に扱ったりすることは無さそうです。ファミリーのように暮らしているように見受けられます。それはとても救いですよね。ある意味ではそこにいるしかないのかもしれないですが、そこにいることで(寝食など)守られている面もあったのかもしれません。

“物言わぬ” ルールー

ルールーは、耳が聞こえず、声に出して言葉を話すことができません。

私自身は、このポイントについて問題なく語るのは、さらに難しいと感じています。

声に出して物を言わないルールーは、ある意味では、周囲の目に庇護対象として映ることでしょう。言葉を発しないこと、それは、まだ言葉を知らないとても幼い子どものようにも見える可能性があるからです。

外国から日本に来たばかりで日本語を流暢に話すことができない人に対して、周囲の人が気遣ってゆっくり話しかけたり、大きく相槌を打って安心させようとしたりすることも、ある意味では子ども扱いのようです。日本語話者の人も、英語の授業や英会話教室で発言しようとした時、じっと発言を待たれて余計に緊張して言葉に詰まったこと、結局、自分の言いたかったことをはっきり言えなくてモヤモヤしたまま終わってしまったこと、あるのではないでしょうか。

人は、意思をはっきりと強く伝える手段を持たない時、その社会の中で未熟者、弱者として扱われてしまうことがあるわけです。

また、単純に、その他大勢と少し違う特性を持っているから神秘的に見えいてしまう、という点もあるでしょう。

ルールーは、妓楼の中で余興みたいな感じで行われている占いにおいても、霊媒師のようなポジションを演じさせられています。人間の声が聞こえていない彼に対して、まるで神様の声が聞こえているかのようなふりをさせているわけですね。(しかも、実際にお告げを読み上げているは他の遊女の女性。)

ルールーの中性的な美しさ

そして、なんといっても決定打となるのは、彼の美しさでしょう。妓楼(遊郭)に住む美しい女性たちと、負けず劣らず美しい、むしろひときわ美しいとも言える、京劇役者のような顔立ちの美少年です。結局、彼が美しいということは芥川(視聴者)の目を引くのに外せないポイントなんだと思います。

日本では古来から、義経、森蘭丸、天草四郎などの美少年が物語のモチーフとして好まれてきました。また、伝統的なお祭りの中で、少年が綺麗にお化粧をして神の御前で舞うような風習がたくさんあります。まだ子どもであり美しいもの、それは男性とも女性とも言えない中性的な魅力を持つ、神秘的な存在と言えるでしょう。

ちなみに、芥川がお能を見た時の感想で、「実はこういう時にもわざわざ子役を使ったのは何かの機会に美少年を一人登場させることを必要とした足利時代の遺風かとも思っている」とか言ってて、お能さえメタ的に見ているヤなやつだってことがわかるわけですが、ルールーは、まさにその子役パートといったところでしょうか。

じゃあなんで、中性的な魅力を持つ役が必要で、美少女ではダメなのかという話です。田島くんの推理では、ルールーイメージの元になっているのは、芥川龍之介作『アグニの神』の中に登場する、呪術を使う老婆に幽閉されている日本人の少女なのではないかということでした。主人公が部屋から助け出すのは女性です。

端的に言えば、「芥川さんにとって、女性というのは恋愛対象であり、ややこしいしがらみ無しに書くのが難しい役柄だから、美少年がベストな落とし所だからかな」と思っています。

ドラマの中では、芥川はずっと愛人の秀しげ子(ひでしげこ)さんが迫り来る様子を思い出し、うなされ、さいなまれています。そもそも、逃げるように中国に来ている側面もあるようです。それらのお話は、田島くんが詳しく書いてくれています。

極度に女嫌いだったり女好きだったりする芥川さんのことを考えると、純粋に人間同士の交流を描くべき時、相手が女性であることがノイズになる可能性があるため、男性の方が都合が良かっただろうと思います。

結論

「美しい」「あんまりしがらみがない」「なんかかわいそう」「他の人と違う特性を持っている」「ちょっと幼くて純粋無垢に見える」「でも何か言いたいことがありそう」「何を考えているのか知りたい」「異国情緒溢れてる」「神秘的」

以上のように、このドラマの中においては、複合的な要因によってルールーが魅力的に見えるようにきっちりレールが敷かれているため、芥川と我々が彼のことが気になって気になってしょうがないのは、当然だと言えるでしょう。

「「「そんな君を、俺が、ここから救い出してあげる」」」

誰かを弱者だと感じ取り、無性に支援したい、救済したいと感じたら、なんでそう思っちゃうのか、自分の抱えてる心の闇とか、根底に持っている差別心と対話する必要があって、生きて行くって苦しいですね。

もうちょっと遠くからドライな面だけを見たら、中国を訪れた芥川も外国人としてstrangerであれば、ルールーもまた社会にとって少々strangerであり、その2人が出会って心を通わせたということになるでしょう。

ただし、疑問が残るのは、ドラマの松田さんが演じる繊細でピュアな芥川じゃなくて、本当の芥川はこの子を気に入っただろうか、という点です。

私は、「まぁ、多少は気に入っただろうな」と思いました。ただ、それは好奇心をくすぐる程度で、心を奪われたり心の交流を求めたりするほどじゃなくて、距離を取って観察するだろう、あと、心奪われるように見えるとしたら、それは人間として尊重しているというよりは、完全にその時の気分で、女性たちと比べて高貴で清潔なものとして持ち上げる題材にするだろうな、とも思いました。(芥川さんに対する偏見が強い。) 

つまり、もうちょっと上記のような魅力ポイントに対して、本能的に引き寄せられつつも、しっかり記号として認識しただろうという考えです。

逆に女性だったら、なんだかもっと取り込まれて、まためちゃくちゃになっていたかもしれません。

個人の感想です。

芥川さんはルールーを啓蒙しようとするでしょうか

芥川はルールーに本を与え、読むように薦めます。これは、ルールーが文字を書けるということに気付いた芥川が、ルールーを啓蒙しようと取った行動です。

こちらのいきさつについても、第3回に詳しく書かれています。

この点についても、なんだかフワンと腹落ちしないところがあったので、ちょっと見て行きたいと思います。

「文」と「武」

ドラマの中で、芥川は、本を読めばルールーは自由になれると考えていました。「文」を知れば、己の力でここではないどこかへ行ける可能性が広がるということを教えようとしていたのです。

ところが、本を読み、この世のことを知り、思想を覚えたルールーは、他の若者たちとともに革命運動に参加し、命を落としました。

これは、ドラマの中で明示されていることではありませんが、暗に、芥川が自殺した原因の一つとして、それが直接のトリガーではないにしろ、「文」が「武」に敗北する瞬間を目の当たりにしたことに絶望してしまったのではないかという説を提示していることになると思います。

「文」は芥川が最も信じてきたものであり、彼そのものとも言えますから、それが意味を持たない時代に突入するのであれば、自然、彼自身が自分の存在に無力感を覚え、「武」に制圧される前に自分でピリオドを打ってしまうことも考えられるでしょう。

ドラマ全体の冒頭や最後でも、大正ロマンが終わり、ひたひたと迫り来るこの後の戦争を意識させるような作りになっています。我々は、「この後、本当に文が武に押しつぶされる時代に生きていたら、芥川は何を思い、何を言っただろう」と思うような。そんな時代の狭間に、繊細すぎて、腹を壊したり、死んでしまったりするような人だということが強調されているからです。

実際、この理由ならめっちゃかっこいい。田島くんの記事読んでると、「愛人にさいなまれて病んでいただけ」説があって、ちょっと悲しくなりますが。

これは個人の感想です。

芥川の上から目線願望

芥川には、物事を俯瞰した視点から冷静に、客観的に見たい、という万能感願望があるように思います。もちろん、元来ちゃんとそういう視点を持った人だということは置いておいて、意識的にそうでありたいという気持ちがあったということです。

また、人に勝っていたい、人より上にいたいという気持ちもあると思います。

例えば、劇団のので扱った『蜘蛛の糸』『秋』『蜜柑』を例に挙げてみましょう。

『蜘蛛の糸』に登場するお釈迦様は、上から地獄を見下ろし、地獄に蜘蛛の糸を垂らします。糸が切れて地獄の人たちが再び落っこちて行っても、ちょっと悲しい顔をするだけで、特に何という影響はありません。思い付きで助けようとして、「やっぱ浅ましいんだな、残念」とか言って、全然救済してあげていない。

『秋』では、姉妹の信子と照子が俊吉を巡ってなんだかモヤモヤした争いを繰り広げるのですが、俊吉はあんまりそのことは気にせずに飄々としているわけです。しかも、信子が目指していて諦めた文学を、着々と生業にしている。「取り合われる俺」「君たちを置いて高みに進んでいく俺」みたいな。

なんというか、俯瞰しているというか、達観しているというか、他の人よりも優れていて上の立場にいる役が登場していて、これが芥川の取りたいポジションなのかな、と邪推してしまいます。

『蜜柑』に出てくる主人公は、別に人生うまくは行っていないような感じが漂っていますが。でも、目の前にいる小娘に対しての態度がちょっと気になります。

主人公は、小娘のことを「横なでの痕のある皸ひびだらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘」「下品な顔だち」「服装が不潔」「愚鈍な心」と評価しています。あくまでも主人公がそう思ったということであって、芥川本人ではないのですが。まぁ、貧しい出の子どもをどのように捉えているかの指標の一つにはなるでしょう。やっぱりちょっと見下ろしてるわけですね。

少女が汽車の窓を開けてようとしている時も、何か手伝ってあげようとか、理由を聞いたりすることはしない。最後に少女が弟たちに蜜柑を投げるシーンを見ていきさつに合点が行った時も、心から感動してあげるわけじゃなくて、なんかちょっとほっこりする程度で終わり。別に寄り添う視点は感じないですね。

なんかこう、これが弱者に対する彼の基本的な視点なんじゃないかと疑ってしまいますね。誰かが本質的に救済されるというお話じゃないし、それをしようとする人も現れないからです。

作品と作者は違うので、私個人の感想です。

芥川の子育て参加

芥川さんには三人の息子さんがいらっしゃいましたが、離れで仲間と集まっていることが多く、あんまり積極的に一緒に遊んであげたりしていたわけではないようです。

結論

このドラマの中で、芥川がルールーに本を与えるというこのエピソードは、芥川さんのキャラクターを美しく深掘りし、時代に翻弄されていく人々のことも描き出し、実際のエピソードにも綺麗に繋げていき、感動ポイントも作る、最強の創作パートになるわけですが。(間違いなく素晴らしいと思います!)

いろいろ考えてみると、実際の芥川なら、ルールーの境遇に着目こそすれ、そんなにちゃんと向き合って本質的な救済をしてあげようと行動したのかなぁ、という疑問が残ります。

芥川さんは人血クッキーを食べられるでしょうか

さて、そして最後に、ルールーが亡くなった後のシーン。

ルールーと共に妓楼に住む玉蘭。彼女は処刑された愛人の男の血をクッキーにしみこませて食べた過去を持っています。これは、もともと饅頭を死者の血に浸して食べることで自分の中に死者の一部を取り込むという風習があるようで、芥川はそのことを「湖南の扇」の書いています。ルールーが亡くなった現場に玉蘭が現れ、ルールーの血にクッキーを浸し、持ち帰ります。妓楼の人々は涙を流しながらそのクッキーのかけらを分け合って食べます。日本人の村田と芥川も同席しており、最初は見ているだけでしたが、芥川はその輪に自ら進んで入り、クッキーのかけらを口にします。

ここで、しつこいのですが、芥川さんは、「興味深いプリミティブな風習のひとつ」として興味を持つことは十分にありえたとして、一緒に食べるかなぁ、という疑問が湧いてしまいました。

私の芥川さんへの偏見が、多分、強い。

このドラマの中では、芥川さんの人体に対する嫌悪感みたいなものが、とても強調されているように見えます。愛人の秀しげ子さんの迫り来る様子。中国人の女性の耳は日本人の髪の毛に隠された耳と違って手入れが行き届いているという評価。京劇の舞台裏で役者と面会した時の、汗の匂いの描写。何度も、人体から出てくるものの不快さが強調される。そんなに潔癖な視線を持っていて、お腹を壊しやすくて、白いシャツをまとった芥川が、血なんて人体から噴出して来る究極体みたいなものだと思いますが、一度地面に落として浸してから時間が経ったクッキーを、迷い無く口に入れるかなぁ。

そして、異国の地で、その土地の人たちと同じ食卓について、同じ儀式に参加するということは、その集団に参入する儀式ですから、この妓楼の人たちにかなり心を寄せたということで。他者を俯瞰しようとする立場から一段降り、輪に同化し、打ちのめされて葛藤する当事者と同じものを見ることを選んだということにもなります。

と思うと、よほどのことだったのかなぁと思います。

芥川が芥川であるところから降りて引退宣言をしているようにも、何か違う他の局面のスタートを切ったようにも見えます。

まとめ

全部が巧みすぎて騙されそうになったけど、芥川さんがこんなに素敵でピュアな感じだっただろうかと思うと、今まで朗読とかで扱った作品を考えると、なんか違う気がする、ということです。

このドラマを製作した人たちは、とても心が綺麗な人たちだと思う。

参考リンク

コラムの第1回はこちらから↓

劇団のので朗読した芥川龍之介の作品はこちらから↓

ドラマについてNHKのサイトはこちら↓

「上海游記」は青空文庫からも読めます↓

「アグニの神」は青空文庫からも読めます↓

「湖南の扇」は青空文庫からも読めます↓

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