『三十年後の東京』#6トーク補足 ~昭和前期のアパートメント式住宅について~

ゆるっと考察
三十年後の東京
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『三十年後の東京』楽しんでいただいてますか?

みなさんこんにちは。水色担当、ばねです。

ののラジオ 海野十三『三十年後の東京』が、ついに配信を開始いたしました。

1947年に発表されたこの作品。実に終戦の2年後という時点で「三十年後の東京」を描いた、少年冒険SFです。未来を描きながらも、発想や意匠には昭和がにじみ・・・・・・

いわゆるレトロフューチャー好きの方にも、おすすめです!

   

お楽しみいただいておりますでしょうか?

   

  

わたしは、楽しんでいます!

  

そして、

まちがえました!

  

はい。第6話感想トークでのうっかりを、訂正させていただく記事でございます。

しかし人は七転び八起き。

思いがけず、答えに辿りつきもしたようで・・・・・・?

  

  

〈本屋の奥〉と〈アパートメント式住宅〉

さてさて、問題の箇所は第6話です。ここから先は、ネタバレ注意です。いいましたよ。いいましたからね。

  

この一文が、どうも上手くビジュアル化できなかったんです。

  

(区長は彼を)「りっぱな本屋につれこんだ。奥は住宅になっていた。いわゆるアパートメント式の住宅であった。そのうちの一軒の前に立った区長は」……

  

まず本屋さんがあって、奥が住まいになっていて、それが「アパートメント式の住宅」で、そのうちの一軒の前に立った・・・

まず思い浮かべたのは、昔ながらの個人商店の造りでした。干物屋さんとか、金物屋さんとか、駄菓子屋さんとか。道に面したガラス戸の引き戸をあけて、お店スペースがあり、その奥側が一段高い小上がりになってて、お店の人(おじいさんかおばあさん)が座っている、そのうしろの戸をあけると、もう住居スペース……みたいな……。

でもそれだと、個人宅ですよね。いっても、同じ造りの戸建てが並ぶアーケード商店街とか。アパートという感じじゃない。

本屋を抜けたあと、そのうちの一軒の前に立った、と言っているので、なにか廊下のような中間スペースもあるようですし。

  

という感じであいまいなビジュアルをこねくり回していたところ、感想トーク中にわたしの口から飛び出したのが、

「文化住宅みたいな?

 でも、あれは70年代くらいからか……」

というワードでした。

  

  

文化住宅とは?

文化住宅って、みなさんご存知でしょうか?

わたしは、

知りませんでした!

そう、実のところ、よくわかっていなかったのです。なんとなく「2つの別なものがくっついている」というイメージがありました・・・本屋から住宅へ・・・。

困ったら、検索。それが令和です。

  

レッツ、ネットサーフィン!

Wikipedia「文化住宅」

  

Wikiを見ると「文化住宅」には大きく2種類あり、2つの時代に文化住宅があることがわかりました。

まず〈1〉つめは、大正中期~昭和前期くらい(1920~1935ごろ?)に流行った、和風の建築のなかに洋風の造りを入れたもの。応接間のあるものが定着していった、とか。

西洋への、モダンな暮らしへの憧れから、これを「文化的」な住宅と呼んだのでしょうか。

ジブリパークにある「サツキとメイの家」も、文化住宅スタイルなのだそうです。

ウィキメディア・コモンズ「Satsuki and Mei’s House 01.JPG」

  

そして〈2〉つめは、高度経済成長期(1955~73ごろ)を中心に関西圏でたくさん建てられた集合住宅。それまでの風呂・トイレに台所までも共同な”共同住宅”を脱し、風呂・トイレ・キッチンが各戸にある、「文化的」な住宅! ということのようです。(分家住宅、という説もあり?)

ウィキメディア・コモンズ「文化住宅PA211864.jpg」明石市のもの

これは、しかし、今見ると、家賃のお安い、至極よくある木造アパートに見えますね?

おそらく、建物のつくりとしてはそうしたもの。呼び名が示すのは、経済成長期の人口増・世帯増に対応して一斉に建てられていった、時代と地域を象徴するスタイル、ということのようです。

(余談ですが、じぶんの脳裡に文化住宅がインプットされていたのは、どうも松本人志さんのコントから、だったと思いだしました。『VISUALBUM』というシリーズのコント「ミックス」(「vol.りんご 約束」に収録)。文化住宅に住む夫婦の暮らしぶりを、匂い立つほど描いてます。副音声で、文化住宅の美術セットにはこだわった、昭和40年代のあの感じ、と話していました……)

 

しかし困ったことに、〈3〉つめもあるのです。それは、平屋文化住宅

劇団のの主宰の のあ よりタレコミがのあったのあですが、平屋で、ある区画にギュギュっとまとまって、同じ間取りで何軒も建っているやーつ。を、そう呼んでいるらしい。たいてい、外にガスボンベが付いてますね。

戸建てなんですが、用途としては〈2〉のように人をどんどん収容してく目的が大きかったのかも??

しかし、文化住宅の辞書にまだ捉えられていない謎の存在……。これも、文化住宅。

 

   

というわけで、文化住宅。

〈1〉大正ロマンを残す富裕な和洋折衷建築 と

〈2〉昭和中期、庶民層の自立した暮らしを支えた木造アパート

〈3〉昭和中期?庶民層の自立した暮らしを支えた、同敷地沢山戸建て平屋住宅

の3種類、とざっくりまとめておきましょう。

  

  

で、「三十年後の東京」の建物はどんなスタイルなんだ!

そうなんです。

ぜんぜん、本屋からつながっていくスタイルじゃないですよねえ・・・・・・。

あと「70年代から」だと、ちょっと遅いし。文化住宅。不用意な発言をお詫びいたします。

  

さて。では、どんな絵を描けばよいのでしょうか?

  

困った私は、原文をよく読みなおしてみました。

りっぱな本屋につれこんだ。奥は住宅になっていた。いわゆるアパートメント式の住宅であった。そのうちの一軒の前に立った区長は

いわゆる、アパートメント式の、住宅?

   

「いわゆる」と云うのであれば、その頃の人がだいたいそう思っている、きほんのもの、ということでしょう。誰でもわかること。

わたし、さっき、冒頭のほうで「いわゆるレトロフューチャー」と、言いました。あれ、ひっかけです。レトロフューチャーって、そんなに大手を振って使えるワードとも思ってないのに、メジャーなフリをしたのです。すみません。ともかく、

  

   

きっと、海野十三さんがこれを発表した1947年ごろに、アパートメント式の住宅、といえば、すぐわかる感じの、もの、だ!

  

そうしてわたしは、調べました。一生懸命調べました。一生懸命サーフィンしました。

そして、お母さん。

見つかりましたよ。

   

明治~戦前の集合住宅

   

〈戦前の「集合住宅」の歴史〉(「KAGURA OFFICIAL BLOG」)

近代での集合住宅――二階建て以上、複数の住戸がひとつの建物に入る――が都市層に入ってきたのは明治末期から大正。丸の内で1904年に完成した、レンガ造りの三菱六号館・七号館には住宅スペースも入っていたそうです。

で、時代は下って鉄筋コンクリート工法が入ってくる。

「大正5年(1916年)に長崎県の端島、通称軍艦島で三菱の一連の炭鉱住宅の中に建てられた30号棟が、日本で最初の鉄筋コンクリート造集合住宅でした」(同上)

そして、1923年に関東大震災が起きます。〈ののラジオ〉でとりあげている作家さんも、多く、被災しています。関東圏は震災前後で大きな変化を余儀なくされるのですが、その調べはまたの機会にして。その際の義捐金を元に、内務省が翌年設立したのが「同潤会」です。住宅をたくさん供給しはじめます。同潤会アパートです。

  

あのー、表参道ヒルズ、できるときに、同潤会アパート壊すな!って、運動してましたよね。わたし、ほんとにあほなんで、あれ一軒が同潤会アパートだと思ってたんですが、あれは、「同潤会 青山アパート」なんですね。2003年に解体。

ほかにも、同潤会のアパートはそれはそれはたくさんあったのです。

   

(※ちなみにこの頃のアパートは、鉄筋コンクリートだったり、もろもろハイソな造りをしています。当時は今の「マンション」という呼び名がなかったんです。そもそも「マンション」は英語では「大邸宅」という意味ですし……。やがて「アパートメント」の地位を「マンション」なる言葉・概念が乗っとっていく時代が来るのですが、それはまた別の話)

   

   

同潤会アパートがどんどんと

「同潤会アパートは、昭和9年(1934)までに東京と横浜に計16ヶ所建設されました」

(「東京の街~くらべる探検隊~ 第16回「同潤会青山アパートと表参道」」〈東京ガス ガスミュージアムブログ〉より)

そうして10年で、同潤会だけで実に2600戸以上の住まい(世帯)ができたのでした。そして、

「同潤会アパートの成功によって昭和初期に、東京における民間集合住宅の建設量は増加し、アパートメントブームが起きました」

 例:銀座アパートメント(現 奥野ビル)和朗フラット などが現存

が、その「昭和12年(1937年)、日中戦争の勃発によって諸々の経済統制が始まると、その年の10月には「鉄鋼工作物築造許可規則」が公布され、鉄筋コンクリート造の建築は造る事が出来なく」なってしまいます。(引用「KAGURA」)

   

その後、終戦が1945年ですから、1937~1947年には「アパートメント」建築は大きくは動かなかったと考えていいでしょう。

同潤会が先導し、民間が続いた建築、これを

「いわゆるアパートメント式の住宅」と考えてよいと思うのです。

だから、まあ、いまでいうマンション。

   

   

これが、いわゆる、ひとつの、アパートメント式の住宅だ!

さて、前掲の「KAGURA」さんの記事には、同潤会アパートについてこう書いてあるんです。

「各アパートには集会所・浴場・食堂・理髪店などを設けたほか、店舗付きの住棟、児童公園の設置など,住宅だけでない共用施設が数多く設計されました」

店舗が、ある!

  

そして、こちら「都市徘徊blog」さんの2006年9月の記事に残された「同潤会 上野下アパート 東棟」の写真をご覧ください。

   

見ましたか?

   

わたしは・・・! 見ました!! 1階テナントを!!!

 

これは、本屋といっても、もはや過言ではあるまい?

   

   

まとめますと、

おそらく1947年当時の「いわゆるアパートメント式の住宅」は、

同潤会が広げた、鉄筋コンクリート造り、複数階建て、1階等に店舗・施設も入っていたりする、

今の言葉ではマンションと呼ぶだろう規模と造りの、集合住宅のこと、なのでした。

   

Q.E.D.

   

  

・・・というわけで。

ながなが、ありがとうございました~。

ひきつづき〈ののラジオ〉をご愛顧お願いいたします~。水色担当、ばねでした。

次回は〈団地〉篇だ!(嘘)

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