宮沢賢治「注文の多い料理店」|考察|生きることは食べること

コラム
注文の多い料理店
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「注文の多い料理店」のテーマとは?

このお話は、賢治から見た、当時の社会に対する皮肉や批判だと考えられています。

それは主に、

  • 拝金主義(お金が第一という考え方)
  • 近代化(文明への依存)
  • 欲望(自然や生命への敬意・畏怖の欠落)

などであると考えられます。

ちょっと、その線から、このお話を一緒に考えて行ってみましょう。

紳士ってどんな人たち?

イギリスの兵隊のかたち

都会から、流行の西洋風の格好と立派な装備でやって来た、紳士たち。

賢治は、自分の住んでいる岩手県の地域を「イーハトーヴォ」(イーハトブ、イーハトーボなど様々に表記されます)と名付け、そこをファンタジーの世界として、空想を広げていました。

特に賢治は、その空想世界を形作る時、ヨーロッパ文化に影響を受けました。強い憧れを持っていたのですね。もちろん、イギリスにも憧れを持っていて、賢治は地元の海岸を「イギリス海岸」などと名付けています。実際にイギリスに行くことはなかったようです。

兵隊たちのことを「イギリスの兵隊のかたち」と表現したのは、紳士たちの様子を分かりやすく表現したものと思われます。

ちなみに、第二次世界大戦の直後、多くの文学作品もアメリカ軍GHQの検閲対象となりましたが、この箇所は問題視され、削除された時期があるそうです。

Wikipedia

紳士は小太り

紳士が小太りであると書かれていることもまた、都会から来て、裕福であることを示しています。

現代において(特に欧米では)、田舎では自動車を使うため太っている人が多く、都会の人はよく歩くため痩せている人が多いという傾向があるため、ちょっとピンと来ないかもしれません。

この当時は、農村では素食で力仕事をするため痩せており、都会では便利に暮らして贅沢な食事をしているためふくよかになる余裕がある、というイメージだと考えられます。

犬の命を粗末に扱う

この紳士たちは、冒頭で連れて来た大きな二頭の犬が泡を吹いて倒れて死んでしまった時、まずはその値段を口にし「損をした」と言います。犬の体調を心配したり死を弔ったりするそぶりは見せません。ひど〜い。

自然への知識不足

紳士たちは趣味で狩猟にやって来ています。あまり野山の天候の変化や地理に詳しくなく、甘く見ていたため、やられてしまったのかもしれない。

名誉欲

料理店の看板の意味を読み解く際、紳士たちは、えらい人たちに会えるのではないか、と期待します。欲望に目が眩んだために、判断を見誤ってしまいます。

近代化の波

当時の日本社会は、西洋諸国の影響を受け、急速に発展した時期でもありました。特に、第一次世界大戦で勝って景気が良くなったこと、関東大震災からの復興などが拍車をかけ、鉄道が通り、自動車が走り、西洋風の建物や服装、食文化、教育などが広まります。世の中はどんどん便利になってゆきました。

そのように科学が進歩すると同時に、人間は自然をコントロールする術を学びます。気象や地理を読めるようになり、農業に化学が導入され、手仕事は機械仕事に変わってゆきます。山や森の奥は、人間の力で知ることのできない神の領域ではなく、科学の力で掌握できるものになってゆくのです。

賢治が活躍した1920〜1930年代頃は、木炭や薪のために多くの木が伐採され、ハゲ山のようになる里山も多かったようです。

人類は、自然や神など、自分たちでどうすることもできないものに恐れを抱いていましたが、やがてその頂点から “神” が引きずり下ろされ、そこに “お金” が据えられることになります。

これが、近代化の波と、拝金主義の登場です。そしてそれらは、人間の欲望のままにどんどん加速していくことになります。

(ちなみに、現在は、「資本主義も行き詰まったし、次はその “金” の部分に何が据えられるんだろうね?」という議論が、さかんにされています。)

自然に叱られる

紳士たちは、謙虚ではありません。自然を甘くみて迂闊な行動をとっていたため、のこのこと山深くに分け入り、まんまと料理店に騙され、持ち物や着ていた物を奪われ、危うく食べられそうになってしまった。

さて。少年や少女が森に入って行くと悪いオオカミやキツネ、クマ、魔女などに出会い、怖い目に遭う(食べられそうになる)という筋書きの童話は、ヨーロッパやロシアなどで多く見られます。多くの場合、本当に森と隣り合わせの生活において、「森に入るのは恐ろしいことなのだよ。だから迂闊に入っちゃだめ」と子どもに教えこむために、このような物語が言い聞かせられ、語り継がれたと言われています。

「注文の多い料理店」も、このような分類から発展したものの一つと考えることができるかもしれません。共通した教訓は「自然をなめてかかるな」……ということでしょうか。しかし、ここでその教訓が向けられている先は、子どもではなくて、大人の社会のようですね。

助けてくれたのは犬

劇団ののが稽古で注目したポイントは、「でも、最後、犬に助けられているよね」ということなんです。

紳士たちが、いよいよ自分たちが食べられてしまうかもしれないということに気付いた時、突然、犬が突入して来ます。あの、冒頭で紳士たちが見捨てた、二匹の犬なのです。

犬たちは、人間に飼育されているため、自然とはまた一線を画した中間的な存在なのだという見方もできそうですが。

いずれにせよ、紳士たちは、自分たちがぞんざいに扱って見捨てた生き物たちによって、命が助かるという結末なのです。

紳士たちは妙な罰を与えられている

紳士たちは恐怖体験から顔が紙くずのようにくしゃくしゃになって、東京に帰った後も、お風呂に入っても何しても治らなくなってしまいます。これは、「罰を与えらた」「バチが当たった」と言って良いでしょう。

紙くずのようになるというのも、また面白い表現です。恐怖に歪んだということでしょうか。お湯戻しを試みているということは、シワシワになったということなのでしょうか。

もうちと技術が進んでいれば、SK-II、あるいはドモホルンリンクルに浸せば、治ったかもしれないね……惜しいことをした。

紳士たちには許しも与えられている

これも劇団ののが稽古で注目した点です。紳士たちは、最終的には助かっています。食べられていない。ここ、重要ではないでしょうか。

もし、本当に彼らを徹底的に罰したいのであれば、そのまま助けられずに食べられてしまい、「はい、みなさんも山をなめると、このように殺されます、以上です」という結末もありえたわけですから、ある意味では、紳士たちは許された、と解釈することもできるのではないでしょうか。

まぁ、そもそも、紳士たちってそんなに悪いことしたわけじゃないっていうのもあるかな。だって、別に犬のこと虐待して殺したわけじゃないし。料理店で料理食べようとしただけだし。看板に従順に従っただけだし。すごく普通の人たちだと思う。

だがしかし、日本の昔話でも、海外の民話でも、ちょっと欲を出して意地悪な振る舞いした老人や、ちょっと森に入っただけの少年が、そんなにしなくたっていいじゃないか、という酷い目に遭わされることが多い。熱した鉄の靴で踊り続ける、とか、全身火傷させる、とか、死ぬまで愛娘に会えない、とか。

顔がくしゃくしゃ、って! めっちゃ軽微な罰ですやん!

しかも、見回してみると、木の枝には、さっき看板の指示に従って取り外してしまった上着、ネクタイピン、財布なども、引っかかっている。ちゃんと返却されていて、全部を奪われていないんです。

特にお金。さすが、お財布なくしても届く国、ジャパン!

さらに、ちょうどいいタイミングで、プロの猟師さんが助けに現れます。ナイス!

生きろ!

「自然をなめると罰せられる」が注目されがちなこのお話ですが。

結末を前向きに捉えると、「紙くずのような顔のまま生きていけ!」「自然のありがたさを肝に銘じたね! 引き続き、営みを続けたまえ!」というメッセージとも受け取れませんか?

ただちょっと、「受難だが、救われた命は与えられた命だから、十字架を背負ったまま、全うする」みたいな考えは、ちょっとキリスト教っぽすぎるような気がするので、「ちがうね!」と思うかたのご意見を、ぜひうかがいたい!

仏教だとどういう考え方になるんだろう?

とりあえず、賢治は、多分とても優しい人だ。

食べる・食べられることについて考えてみよう

そして、許し(赦し?)に絡めて話しますと。

そしてうしろからは、
「旦那だんなあ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。
 二人は俄にわかに元気がついて
「おおい、おおい、ここだぞ、早く来い。」と叫びました。
 簔帽子みのぼうしをかぶった専門の猟師りょうしが、草をざわざわ分けてやってきました。
 そこで二人はやっと安心しました。
 そして猟師のもってきた団子だんごをたべ、途中とちゅうで十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。
 しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。

ラスト、ついつい顔が紙くずのようになったところばかり注目されてしまいますが。面白いのは、ここ。紳士たちは、猟師にもらった団子を食べ、そして、十円で山鳥を買って東京に帰るんです。よかったよかった。

あれ? でも、なんで物語の最後、食べ物についてそんな具体的に描写しだしたんだろう? という違和感がありませんか?

こういう不思議な何気ないことを書けるから、物語を書く天才なんだよなぁ、と思い知らされました。この最後から2つ目の文、普通、書けます!? 無駄だからカットしようってなっちゃいそうなひとシーン。

ここで、このお話を、「食べる・食べられることについて」という視点で切り取ることもできるような気がします。

冒頭、紳士たちが山へ来たのは、そもそも、狩猟が目的です。狩猟=ジビエを食べることが目的。そして、みなさんご存知の通り、このお話のメインパート、西洋料理を食べようとする。実は騙されていて、自分たちが食べられそうになる

団子を食べる

そんな恐ろしい目にあった後ですから、猟師さんが助けに来て、お団子を出してくれたら、それはもうホッと一安心、一服したくなりますよね。かぶりついて、いっきに食べたかもしれない。

(なんだか、分かる気がする。わたしも実は中学生の時に、クマが出るという山で日没して遭難したことがあるんですが、県警で、テーブルいっぱい山盛りに用意してくれていたおにぎり、泣きながら食べました。)

この猟師がくれた団子って、「おなかがすいてるだろうから、あげる」という、ものすごく純粋な親切心から差し出された食べ物なのではないでしょうか。紳士たちはその優しさに、少なからず触れたわけです。

ここが、第一許しポイント。

余談ですが、この猟師という人は、ある意味、賢治の「雨ニモマケズ」を実践しているような人だと思います。山に困っている人がいたら草を分けて行って助け、誰に褒められることもなく、苦にされることもなく、お腹が空いてる人に団子を差し出す。そんな人に、わたしはなりたい。

この猟師さんは、遊びのためじゃなくて生きるために山に入り、生きるために動物の命をいただいている、自然環境の中で自然に生きている、いわば紳士と対照的な、「理想的な人間の在り方」として登場させられている気もします。

山鳥を食べる

さて、冒頭、やったことがない狩猟への意気込みを語り、「はやく鹿の横っ腹に銃の弾を打ち込んでみたい」「くるくる回ってどたっと倒れるんだろうね」などと、生き物の命にあまり敬意がなさそうな言い方をしていた彼ら。そして、頼りの猟犬が死んでしまってからは、「昨日の宿屋で売ってた山鳥を十円で買って帰ればいい。同じことだ」「ウサギも出てた」などと言い合います。

その発言の通り、どうやら十円で山鳥を買って東京に帰ったようですね。

しかし、これは本当に、ただの「予定通り」のお買い物なのだろうか。彼らが鹿を撃って持って帰ることと、山鳥を買って帰ることは、彼らの中で、「同じこと」になったのだろうか。

そして、あそこでそのまま引き返して軽い気持ちで買っていたであろう山鳥と、命からがら下山して買った山鳥の味は、ちょっと違うものなのではないでしょうか。狩猟を生業とする人たちが獲ったであろう山からの頂き物を、対価を支払って持ち帰らせていただく……この重みがいやでも生まれているのではないでしょうか。

お財布が返却されたので、無事、お支払いできたんだしねぇ。

ここが、第二許しポイント。

食べることで安心したり学んだりする機会を与えられている

などと、考えてみました。

生きることは「食べること」ですし、自然界の死の多くは「食べられること」ですよね。どっちの立場になるかで、安堵感と緊張感の落差がすごいですね。

危うく食べられるところであった紳士たちには、食べるという体験を通じて、救い・許しや、反省する猶予みたいなものがしっかり与えられている気がします。

これも「そこはそんなに注目すべきポイントじゃないぞ!」「もっとこういう意味だと思う!」という話し合いを、ぜひ!

ちょっとジブリアニメの話をさせてください

以前、こちらの稽古場ブログにも書きましたが、ジブリアニメの中には、「注文の多い料理店」をイメージできるようなシーンや描写がいくつもあります。「注文の多い料理店」を読むと、ジブリアニメのシーンをよく思い出せます、という方が正しいかもしれません。

詳しくはこちらをご覧ください。

共通点は、「動物たち=森・自然・神々」VS「人類=破壊者・文明・汚染・欲望」という構図。

ただし、ジブリの作品では、概ね「両者が共生する道はないのか」という追求が強く、そして本質的には人間の方が押しが強くて、自然は何らか形がひしゃげて残っていく、という結末が多いように思われます。非常に現実的ですね。

この自然VS人間、みたいな話は、また新美南吉さんの「ごんぎつね」など、キツネとタヌキが登場する物語をたくさん扱うシリーズがあるので、いつかまた、そちらでお話ししたいと思います。

ちょっとよく分からない点

賢治自身、童話集「注文の多い料理店」の序章にて「なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」と断言しています。

なので、分からないところは読み手が自由に想像して楽しんでもいいってことですね。賢治先生のお墨付きです。

(ちなみに、無責任発言ぽい部分だけ抜き出してしまいましたが、序章には、大変短いながら賢治らしいとても美しい文が連なっているので、ぜひ読んでください。)

それでは、よく分からなかった点を、挙げてみましょう!

犬 なんで生き返ったの?

先ほど、冒頭で1度死んだ犬が、ラストに助けてくれた、と書きました。

どうやって生き返ったんだ? という疑問は、消えないままです。

死んだというのは早とちりで、本当は倒れただけだったのでしょうか? 犬が死んだ辺りからが、紳士たちの見ている夢や妄想だったんだ、と考えることもできるかもしれない。または、犬が何らかの大いなる力(山の神様とか)によって息を吹き返したのだと想像することもできましょう。

分かりません。

が、これについてヒントになるかもしれない本を見つけました。哲学者の内山節さんの著書「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書)に、こんなエピソードがあります。

内山さんが暮らす群馬県上野村には、多くの馬頭観音が建てられています。その地域は、かつて輸送の中継点となっており、馬がよく通る場所で、度々馬が落ちて死んだ崖などに弔いの意味で建てられたのだそうです。ただ村人の解釈は違っていて。自然界には時々、あの世とこの世を繋ぐ時空の裂け目があり、動物にはそれが見えているため、人間を守るために自ら飛び込んでいくことがあるのだ、と。だから馬は落ちたので、馬頭観音は時空の裂け目があった場所だと言うのです。

古来、狼なども、このように時空の裂け目を行ったり来たりする力があると考えられていました。

また、秩父村の古い習慣について。は、生まれたての子どもが初めて外出する際は、おでこに「犬」と書いていたそうです。これは、犬の生命力を借りるためだとか。

犬もまた、狼やキツネなどの生き物と同じように神がかった力を持ち、時空の裂け目を移動できたのかもしれません。そして馬と同じように家畜だと考えると、飼い主を守ろうとした行動も頷けます。

山猫 だったの?

さて、後半、いよいよ紳士が食べられると気付く頃、登場する山猫について。

なんで、山猫だと思います? 

と、意地悪なことを聞いてみました。劇団ののが気付いたことですが、実は、どこにも山猫だと書いてないんですよね。作品の中には、「すると戸の中では、こそこそこんなことを言っています」としか、書かれていないのです。日本語の罠ですね。主語がなくても文章が成立するから、こういうボカシ技が使えちゃうのです。

紳士は、戸の向こうで山猫の会話を聞いていますし、鍵穴から二つの青く光る目玉を見ています。また、最後、犬が飛び込んで行った時には、暗闇の中から「にゃあお、くゎあ、ごろごろ」という声と、がさがさ鳴る音を聞いています。が、一度も直接、姿を見せていません。

あくまでも、敵の姿はぼかされているのです。「扉の向こうにある見えない恐怖」が、最初の扉から最後の扉まで、ずっと続いているわけです。

まぁ、素直に読み取るのであれば、レストランの名前も「山猫軒」だし「にゃあお」と鳴いてるなら、山猫で良いのではないでしょうか。また、セオリー通りであれば、紳士が2人、犬が2頭、と来ているので、山猫が2匹でしょう。ということで、劇団ののもそのように演技をしました。

が、実は、あくまでも謎なので、山猫2匹だよ、と断言はできないのです。

Wikipedia

親分 って何者?

ちなみに、親分、これも誰だか分かりません。

親分も山猫なのかどうか。お店のオーナーなのか。人間なのか。もしかして山の主、森の神など、山猫の上に立つ、もっと大きな力が働いているのか? などなど。

それらについては、こちらの稽古で詳しく話し合っています。

オノマトペ

賢治は、オノマトペを多用することで有名です。作品の中で、オノマトペが使われてる部分を抜き出してみました。これらについて、「もっとこういう表現のしかたが合っている」「様子を再現してみよう」という遊びも、楽しそうです。

動作や鳴き声

ずんずん廊下を進んで(紳士たち)
ぺたぺたあるいて(紳士たち)
頭へぱちゃぱちゃ振りかけ(紳士たち)
がたがたがたがた、ふるえだして(紳士たち)
ぶるぶるふるえ(紳士たち)

くるくるまわって、それからどっと倒れる(鹿)

ううとうなって(犬)
ふうとうなって(犬)
わん(犬)

きょろきょろ二つの青い眼玉が(山猫)
こそこそこんなことを(山猫)
にゃあお、くゎあ、ごろごろ(山猫)

草をざわざわ分けて(猟師)

感覚

タンタアーンと、やって見たい
ぼうっとかすんで

物の様子

ぴかぴかする鉄砲
金ピカの香水の瓶
くしゃくしゃの紙屑

自然の描写

山奥の、木の葉のかさかさしたとこ
風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました
ざわざわ鳴るすすき

死後に評価された「注文の多い料理店」

今では、誰もが知る名作「注文の多い料理店」ですが、最初の出版時の売り上げは、さんざんなものだったようです。童話集のタイトルではなく、料理の名店を紹介するような本だと勘違いされるかもしれないという懸念もあったとのこと。

賢治が生前に出した単行本は、実は2冊だけで、今のように人気が出たのは、戦後、つまり賢治が亡くなった後のことでした。今、こうして色々なところでドラマ、アニメ、絵本、影絵、人形劇、朗読劇などになっていることを、賢治先生に教えてあげたいです。

ところで、劇団内で時々話題になるのですが、みなさんは、生前全く注目されず不遇のまま亡くなった画家や作家が、後の世で評価され有名になった場合、芸術家として幸せだと思いますか? 難しい問題ですよね。

劇団ののメンバーは「後世に残るすごい作品を作って死後に評価されるより、生きている間にお金をもらって、みんなから褒められたい!」という人がほとんどでした(笑)

参考リンク

作品の視聴、他の記事へのリンクはこちらから↓

作品に登場する古い言葉、難しい言葉の読み方や意味の解説はこちらから↓

作品本編はYouTubeでも配信中↓

宮沢賢治 注文の多い料理店 - 劇団のの 朗読・ラジオドラマ|Kenji Miyazawa "The Restaurant of Many Orders" – Japanese Reading
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