本日の稽古は、夫役の梅田拓くん、ナレーションの加賀美もちこさん、「慄える薔薇」で妻の役を演じるスズキヨシコさんです。途中から、栗田ばねさんも参加してくれました。
- 夫の演技は、実は結構難しい
- 夫は、実は現代で言う「ツンデレ」なのではないか?
- 闘病中の妻の神経を逆撫でするような発言をするのはすごい
- 夫がどんな人だったのか、どんな夫婦関係だったのか、新婚時代を描いた作品「慄える薔薇」にヒントを得よう
- 同時代の芥川龍之介の小説に登場する夫婦の会話と比べると?
- 当時は連載している作家だから、読者はある程度、本人の背景を知って作品を読んでいたのかも?
などなど、おしゃべりしました。
本日のお菓子
常にお菓子と共にある、劇団のの稽古場。
ピザポテト → パイの実 → じゃがりこ → なんだか高級なチョコレートおかき
本日のお菓子は、メンバーの独断と偏見により、右は治安の悪いお菓子から、左に向かって治安の良いお菓子、の順番に並んでおります。
完全なる独断と偏見に基づいており、どれも大変おいしくいただきました。
実は難しい夫の演技
本日は、横光利一の『春は馬車に乗って』、夫役の演技を重点的に稽古をしました。前回、夫役の梅田くんが不在の中で夫の行動原理などを読み解いてしまったので、その稽古内容を共有する回となりました。
やはり、夫というのは、かなり複雑な演技が要求される、とても難しい役のではないか、ということがわかりました。
夫はツンデレ
物語は、既に妻が病気になっているところから始まります。
“闘病もの”……と考えると、夫が献身的に妻のことを心配し、優しくし……と想像するのですが。この夫は一味違うからです。
妻の病状が悪くとも、結構ふざけた口調で話しかけたり、今風の言葉で言えば「煽り」とでも言うのでしょうか、神経を逆撫でするような、おちょくるようなことを口にします。
現代風に言うと、「ツンデレ」というやつでしょうか。例えば恋愛ドラマや恋愛漫画で言うところの。
彼氏は素直になれない、わざと煽るようなことを言う。ヒロインは「もう、なによ〜」と言う、または、さらなる機転のきいた返しをする、みたいなやりとりになっています。
少なからず、こういうカップルのいびつなやりとりを「萌え」とするコンテンツは、漫画やドラマ、映画などにおいても長らく市民権を得ているでしょう。
あだち充漫画の主人公、『名探偵コナン』の工藤新一、『花より男子』の道明寺司などは、典型的なパターンでしょうか。木村拓哉さんが演じるいわゆる「キムタクドラマ」の主人公も、そんなキャラクターが多いような気がします。
1つのコミュニケーションのジャンルとして、成立していると言えます。
そういえば、芥川龍之介『秋』に登場する、芥川龍之介本人ぽい人物、俊吉と、ヒロイン信子、妻の照子のやりとりも、そんな雰囲気が出ていました。
この時代から、西洋風の皮肉を言い合うのが、何かスタンダードだったのでしょう。
一言で言えば、愛情表現が回りくどいのです!
しかし、妻が病気で、体調がしんどい状態にあるにもかかわらず、このようなつっかかるような物言いをするのは、なぜなのでしょうか? ここが難しさのネックになってきます。
闘病中なのに煽る?
「ツンデレ」なキャラクターや、これらの会話スタイルがひとつのジャンルとして確立され、我々も慣れ親しんでいるはず。にもかかわらず、『春は馬車に乗って』の中でそのペースをつかむのは、実はなかなか難しい。
なぜでしょう?
それは、彼らが闘病生活を送っているからです。読者は冒頭から「闘病中/看病中だ」と意識して読み始めるので、明るいセリフ、煽るセリフ、おちゃらけたセリフが、全くしっくり来ないのです。
栗田ばねさんがそのことを指摘しています。
「読んでるこっちは、この夫婦が今まで健康だった時にどんな生活を送ってきたのか、もともとどんな人たちなのかまるでわからないのに。読み始めると、のっけからもう闘病生活が始まっていて、妻の病状も相当悪いと来てる。背景や経緯について詳しい説明がされない。すぐに感情移入するのが難しい」
たしかにこの夫婦の会話は、使っている言葉もペースも独特ですよね。
横光の前作からヒントを探れ!
さて、ここで、加賀美もちこさんが大活躍します。
実は、横光利一は、他にも自分と妻の夫婦生活をモデルとした短編をいくつも書いていることがわかりました。
順番に、「慄える薔薇」→「妻」→「春は馬車に乗って」→「蛾はどこにでもいる」→「花園の思想」となります。
我々は、この作品たちを「横光が愛した妻シリーズ」と名付けて、全ての作品に取り組むことに決めました。
その中から、もちこさんが一番初めの「慄える薔薇」を読んで、説明してくれました。こちらの作品は、まだ青空文庫になっていないため、もちこさんが代表して本を借りて読んでくれたのです。
「慄える薔薇」はどんな作品?
「慄える薔薇」は、貧しい新婚生活を始めたばかりの利一と妻がモデルになったお話です。利一本人は小説家ですが、この作品の中の夫は駆け出しの画家という設定になっています。
物語はほとんど、二人の会話が中心となって展開していきます。まるでショートフィルムのような、静かな会話劇。
新婚の頃、妻はまだ肺病を患っておらず、元気でした。むしろ、気弱でぐずぐず考えている夫を、せっせと家事をしつつ、励ましたり叱ったり、時には黙って見守ったりと、頼もしい存在です。
そこにあったのはまさに、ツンデレスタイルとも言える、会話。相手の言葉尻を捉えてどんどん論点がずれて行ったり、察してほしいあまりに曖昧な表現を使ったり、期待通りの返事が返ってこずに、やり合いを続けてしまったり。
我々は、この頃の二人の会話に見える人柄こそが、「春は馬車に乗って」の夫婦のベース人格になると考えて良いのではないか、と予想して、読み合わせをしてみました。
やはり平時からツンデレだった
読み進めているうちに、夫役の梅田拓くんが「僕ねぇ、これ読んで、すごい解った気がする。すごい解った。こういう人たち、ホントにいるよね」と、何度も深く頷き始めました。
「はたから会話だけ聞いてると、すごいすれ違ってるように見えたり、噛み合ってないようにように見えるんだよ。でも、そんなに喧嘩してるなら離婚すれば? っていう話ではないんだよね。他の部分ではちゃんと仲良くて。二人の中ではちゃんと成立してるんだよね、関係性が。僕はどちらかというと、不満や不安とかは全部ちゃんと言葉にして徹底的に説明してほしいし、仲直りは理論的な話し合いとかでやりたい方だから。この二人については、なんでここでこんな嫌味を言うのかな、素直に言えばいいのに、なんてついつい思ったりするんだけど。でも、この会話を、また違う人が聞くと、結局仲良しなんだろ、イチャイチャしてんじゃねぇよ、なんていう見方もあるんだろうな」
2人の会話には、回りくどい愛情の美学が、凝縮されているようです。
「僕はね、夫さんは、やっぱり妻が病気になっても、これを続けたかったんだと思うな。どうにかして、昔の元気だった頃みたいにやり合いたかったんだろう、って」
当時は「承前」だったのかも
ここでもうひとつ、栗田さんが気付いたことがあります。
横光は短編作家であり、当日は雑誌掲載という形で作品が発表されていました。つまり、ファンは作品が公開されるごとに読んでいますから、「春は馬車に乗って」を読む時には、既にそれまでの作品を読んでいて、夫婦について予備知識を持っていたのではないか、ということです。
横光があまり登場人物について背景をきちんと説明しないのは、当然「承前」とした上でのことだったのかもしれません。
参考リンク
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