劇団ののでは、今回初めて、横光利一を取り上げてみました。正直に言うと、「何か春らしい作品を」と考えていたおりに『春は馬車に乗って』というタイトルに惹かれて選んだので、メンバーの誰も、横光やその作品についてよく知らないままのスタートとなりました。
やがて『春は馬車に乗って』を読み込んでいくうちに、この作品には、同時期に書かれたいくつかの周辺作品があることがわかりました。それらは全て、横光が愛した最初の妻キミとの生活を、自伝的でありつつ、作家らしい創作を交えて書いたものでした。横光とキミとの、慎ましくも温かい結婚生活。しかしそれは必ずしも幸せなだけではなく、親族の不和、キミの闘病など、数々の困難が伴うものだったことも分かってきました。
劇団ののでは、これらの作品を「横光が愛した妻シリーズ」と名付けて、それぞれの短編が時系列順に持つ意義などを考えながら、朗読作品にしました。
作品本編はYouTubeでも配信中!
また、この記事内で示されている、妻の小島キミとの年表や、新感覚派についてのまとめ情報以外に、作品そのもの、夫婦の会話の分析や見解は、概ね稽古場で議論していますので、下記リンクにまとめられている「稽古場ブログ」からもご覧ください。メンバーの会話形式などで書かれています。各記事の冒頭で、議論したトピックを表示しています。
それでは、シリーズを読み解くヒントとして、横光とキミについての略歴、また横光の文章が属する「新感覚派」とは何か、などなど、調べたことをご紹介したいと思います!
キミと横光の年表
横光利一と、妻のキミに関連する出来事を、時系列に並べてみました。
1919年 大正08年 17歳の小島君子(通称:キミ)と出会い、恋をする。
1920年 大正09年 キミの家に通う。
1923年 大正12年 6月 キミと結婚。
9月1日、関東大震災発生。
9月 中野にキミと同居開始。キミの肺が不調に。
1924年 大正13年 12月 『慄へる薔薇』(『改造』第6巻 12号)
1925年 大正14年 1月27日 中野の家で横光の母が死去。
1926年 大正15年 6月24日 キミ、湘南サナトリウムで死去。享年23歳。
7-8月? 小里文子が訪問。一時期恋愛するが別れる。
8月 『春は馬車に乗って』(『女性』8月号)
10月 『蛾はどこにでもゐる』(『文藝春秋』第4年 第10号)
1927年 昭和02年 2月 『花園の思想』(『改造』)
横光を崇拝する女子美術学校生、日向千代子が訪問。
11月3日 長男象三、誕生。千代子と再婚し阿佐ヶ谷に移住。
キミは、横光の友人である小島勗(こじまつとむ)の妹でした。小島は社会思想派だったため、芸術はの横光に競争心もあり、対立関係にあり、妹と横光の交際や結婚に反対していました。横光の母も、キミとの結婚に反対しました。姉の静子が説得に当たりますが、結局、母とキミの嫁姑関係はうまく行きませんでした。
妻シリーズ作品年表と横光の女性関係
作品と、横光に携わった(作品に登場する女性のモデルとなった)人物との関連だけを取り出しみると、こんな感じになります。
1924年 大正13年 『慄へる薔薇』キミとの新婚時代を描いている。
1925年 大正14年 『妻』キミの療養生活の序盤を描いている。
1926年 大正15年 『春は馬車に乗って』キミの闘病と看取りを描いている。
『蛾はどこにでもゐる』亡くなった後の喪失感。
訪問してくる女のモデルは文子。
1927年 昭和02年『花園の思想』キミの闘病と看取りを見直している。
小島キミ(初婚)→小里文子(同棲)→日向千代子(再婚)、ということですね。
これらの作品もYouTubeで配信中!
芥川龍之介との関係
横光と同時代で有名な作家と言えば、もちろん芥川龍之介です! 実は2人には親交がありました。
横光は1928年4月から1ヶ月ほど上海に滞在し、その後、長編小説『上海』を執筆しています。戦前、芥川龍之介(大正10年 1921年)、吉行エイスケ(昭和4年 1929年)など多くの文学者が上海を訪れており、現地には書店などを中心とするコミュニティーも形成されていました。横光が上海に渡ったきっかけは、芥川に「君は上海を見ておかねばいけない」と言われたから。
忘れられていた作家 横光
戦前、横光の短編は雑誌にたくさん掲載され、芥川龍之介や川端康成などの同時代作家と並んで人気作家だったのです。作風も、短編から長編、ファンタジーから自伝的な小説まで多岐にわたり、多くのジャンルで才能を発揮しています。
しかし、第二次世界大戦中かなり右傾化した思想を持ち、戦争協力的な文章を書いていたため、戦後は敬遠され、大きく取り上げられることがなくなりました。暫くの間は全集などもなかなか出版されず、徐々に「忘れられた作家」となってしまったのです。(ある意味では、芥川や太宰は戦争になる前にこの世を去ったため、その影響を受けなかったのかもしれません)
やがて横光の死後、少しずつ研究が進み、再評価されるようになりました。
新感覚派とは?
実は、新感覚派を明確に定義することは大変難しいことなのですが……その前の時代の作品と比べ、いくつかの明確な特徴がありますので、紹介していきましょう!
1.「震後文学」「江戸時代の終わり」とも……
1923年、関東大震災が起きました。江戸時代から続く建築物の多くが焼失し、当時の東京は大きな打撃を受けました。横光も、まさに被災し、衝撃と混乱の中にあった一市民でした。
しかし、復興時には新しい建物が建設され、人々の生活様式に変化が起き、科学技術も圧倒的に進歩します。この時、明確に江戸時代の文学が終了し、新時代が到来したと評価されています。関東大震災後は、電車、自動車、飛行機などが進歩し、文学の中においても、登場人物の動作や情景描写に、スピード感のある表現が多用されるようになりました。
「新感覚派」は、まさに揺れ動く時代のはざまに生まれた、新しい文学のスタイルだったと言えます。
2. 比喩表現を多用
1924年、横光は『頭ならびに腹』の冒頭に、
「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」
という表現をしました。
特急列車が駆け、小駅が石のように黙殺されるという、なんだか現代では当たり前のように感じる比喩表現や擬人化は、当時は、大変斬新な表現として受け取られました。これを読んだ評論家の千葉亀雄が、横光のような文章の書き方を、「新感覚派」と名付けたのです。
『春は馬車に乗って』でそれが見られる箇所は…
それでは、『春は馬車に乗って』の中から、比喩表現がどのように使われているか、抜き出して見てみましょう!
庭の片隅でひとむらの小さなダリヤが縮んでいった。ダリヤの茎がひからびた縄のように地の上でむすぼれ出した。花壇の石の傍で、ダリヤの球根が掘り出されたまま霜に腐っていった。
秋冬に次第に枯れゆくダリヤが、病状が悪化していく妻の様子を表しているとされています。
彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初において働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、たとえば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか。
ここでは、苦痛を波にたとえ、さらにそれを味わい舌でなめるとたとえています。
子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。
彼女のかつての円く張った滑らかな足と手は、竹のように痩せて来た。胸は叩けば、軽い張子のような音を立てた。
晴れ渡った明るい海が、彼の顔の前で死をかくまっている単調な幕のように、だらりとしていた。
これらは、一般的によく見るシンプルな「◯◯のように」という比喩表現です。それにしても、子どもを「紙屑のように」にとたとえるのは特にユニークな感覚です。遠くから見ていたので小さく飛ばされそうに見えたのか、はたまた白いシャツを着ていたのか……。
ふと彼はそう云う時、茫々とした青い羅紗の上を、つかれた球がひとり飄々として転がって行くのが目に浮んだ。
――あれは俺の玉だ、しかし、あの俺の玉を、誰がこんなにで たらめに突いたのか。
自分の身に起きたことや運命をビリヤードの玉にたとえ、自分以外のものに翻弄されている感覚を表現しています。
彼女は絶えず、水平線を狙って海面に突出している遠くの光った岬ばかりを眺めていた。
「まるで」などの言葉を使わず、岬という無機物を擬人化しています。
とある箇所で、夫は、機嫌が上下し、本能のままに寂しさや食欲を訴える妻を、「けもの」と呼びます。そして、自宅で仕事をしながらその要求に答え、看病し続ける自分を、檻の中に綱で繋がれ周るしかない状態を、檻の中の理論だと説明します。
3. 映像作品の影響
新感覚派には、映像作品の影響もあると言えるでしょう。この時代には、フィルムカメラによる活動写真や映画も広まり、文学の中にもカメラワークを意識した映像的な表現が多用されるようになります。実際に横光は映画を撮ろうと考え、脚本を書いたこともあり、『春は馬車に乗って』にも度々映像的な風景描写が見られます。
『春は馬車に乗って』でそれが見られる箇所は…
海浜の松がこがらしに鳴り始めた。庭の片隅でひとむらの小さなダリヤが縮んでいった。
彼は妻の寝ている寝台のそばから、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。亀が泳ぐと、水面から輝り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。
「まアね、あなた、あの松の葉がこの頃それは綺麗に光るのよ」と妻は云った。
「お前は松の木を見ていたんだな」
「ええ」
「俺は亀を見てたんだ」
冒頭、登場人物や時代背景の説明を一切前置きすることなく、急に風景描写とセリフのやりとりから始まり、まさに映画の冒頭のようです。まずは海辺の景色を想像させ、その次に庭を映し、庭の隅の花へ、そして最後に夫の視線の先にある亀のクローズアップへと誘導する……広い風景の引きの映像からどんどん小さい物へと焦点を絞って行き、いきなり人物の会話のセリフが始まりますが、最小限の表現のみで、ここが海辺であること、庭付きの戸建であること、夫婦が2人で会話していることがすぐに把握できます。
海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻っていった。渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。
これは夫の目線から見た海の風景です。まずは遠方の、岬に差し掛かる船を、次に、もう少し手前の波打ち際にいる子どもたちが映し出されます。しかし、ここで読者は違和感を覚えるはずです。岬より近いとはいえ、波打ち際だって家からはかなりの距離があるはずです(でなければ、満潮時には家が飲み込まれてしまうでしょう)。肉眼で、その距離にいる子どもたちが芋を持っていて、しかも湯気が立っていることまで判断するのは、不可能に近いのではないでしょうか。これは一種、望遠レンズでズームアップをしたような効果であり、現実主義の作品にはあまり見られない表現です。横光の他の作品『妻』の最後の一文も、以下の通り、同様の効果が使用されています。
遠くの草の中で、幼い子供が母の云ふことをよくきいている清らかな姿が見えた。
4. 芥川など現実主義との比較で見てみると……
横光が属するいわゆる新感覚派と呼ばれる文学は、芥川龍之介らが書く現実派の文章とは異なった表現とされています。それでは、どこが違い、どこが新しいのか、見てみましょう!
- 現実派=リアリズム:現実世界にある悲しみの内容や背景をつぶさに観察し、説明・表現しようとする。
- 新感覚派:現実世界や状況を感じ取った上で、その中から普遍的真理を見つけ出そうとする。
つまり……
- 芥川は現実の中から拾いものをしてくるが、横光は現実を超越した発見をしようとする。
- 芥川は現実に分け入るが、横光は現実ではないところに発見を試みる。
というイメージということになります。
『春は馬車に乗って』でそれが見られる箇所は…
彼は作中、「こんなことが起きて苦しい、つらい」「妻の病状や体力がこんな風に悪くなってしまった」「死はこんな風に襲って来て恐ろしい」と、今置かれている状況を言葉を尽くしてありありと描写するだけにとどまりません。
作中、何度も、死や苦しみがどんなものなのか、そこに新しい真理や解釈があるのではないかと、常に発見を試みているのです。
彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初において働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、たとえば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか。
――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、まず透明でなければならぬ。
と彼は考えた。
比喩のところでも出ていますが、これは新しい真理でもあります。苦痛を感じているのに、それを味わい尽くして、その中から「うま味」を発見しようとしている、これは新しい試みといえます。それを全て受け止める自分自身を、フラスコのようでなければ、とたとえています。フラスコは、透明であり、液体を入れるものですから、やはり苦痛をしっかり受け入れようとしているのでしょう。
彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬の苦しみよりも、むしろ数段の柔かさがあると思った。してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。
――これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方がない。
-中略-
「俺はお前がよくなって、洋装をきたがって、ぴんぴんはしゃがれるよりは、静に寝ていられる方がどんなに有難いかしれないんだ。第一、お前はそうしていると、蒼ざめていて、気品がある。まア、ゆっくり寝ていてくれ」
夫は、妻の看病をする意味や生死について色々思案し続け、その感じ方や考え方は段階を経て様々に変化してゆきます。この時、夫は「健康体な妻に心配を掛けられたり振り回されるよりも、病床の妻の方がむしろ魅力的だ、自分は幸せだ」と新鮮な心境に至り、その解釈にすがります。
「死とは何だ」ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。
彼は、死に対して新しい定義を与えようと思案しています。
5.『春は馬車に乗って』は本当に新感覚派?
さて、評論の歴史的には、この作品は本当に新感覚派なのか、という議論があるようです。
評論家たちの間には、横光利一のこの時期の作品を、「手法や文体から新感覚派の代表作だ」と捉える声と、「この作品のテーマは新感覚派とは言えない」とする声があり、評価が分かれているのです。
新感覚派ではないとする評論家の主張は、「現実世界を超えて新たな真理を見出すのが新感覚派だ。この作品においては、作者横光自身が妻の死に対する苦しみという現実、私事に囚われてすぎている」というものです。
みなさんは、どちらだと思いますか?
まとめ
あまり国語の授業や教科書で重点的に取り上げられることのない横光利一ですが、実は、我々が当たり前のように使っている擬人化や比喩表現、映画のカメラワークのような表現をいちはやく文学に取り入れた、先進的かつ革命的な作家だったんですね!
また、横光は長編、短編ともかなり多くの作品を残していますから、作風の変遷を辿っても面白いかもしれません。
今後も注目していきたいと思います!
参考文献:
「新感覚派の文学世界」(紅野 敏郎 編・名著刊行会)より「横光利一の新時代感覚―「春は馬車に乗って」の構造因子」(大橋毅彦)
「近代日本キリスト教文学全集 8」(教文館)
「日本近代文学大系 第42巻 川端康成・横光利一集」(角川書店)
「横光利一集」(新潮日本文学14)
「筑摩現代文学大系31 横光利一集」(筑摩書房)