夏目漱石「夢十夜 第十夜」|考察|「こんな夢を見た」…見るな!

ゆるっと考察
夢十夜「第十夜」
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「こんな夢を見た」

で、有名な夏目漱石の『夢十夜』です。

美しい謎の美女、幻想的なシーンの数々から、何度も映像化、舞台化、漫画化された、全10編の作品集から選ばれたのは……

「なんでこれにしたの?」という『第十夜』です!! 最も意味不明で、別に美しくもなんともない『第十夜』をやってしまいました。

栗田ばねさんによる独演。ナレーションも、女の声も。さらには最後に登場する何匹もの豚の大群も、栗田ばねの鳴き声がenyaのように重なって両耳に襲い来るという奇怪な作品に仕上がってしまいました。

『夢十夜』については、もはや多くの人によって色んな解説や分析が出されているので、深くは言うまい(深く知らない) あくまでも劇団ののが思う、「ここがヤバい!」という点について、一緒につっこんでいきたいと思います。

「こんな夢を見た」で始まるのは4つだけ

『夢十夜』といえば、誰もが必ず「こんな、夢を見た」という書き出しを思い浮かべるのではないでしょうか。

栗田ばねが調べたところによると、実は、全ての話がこの始まり方をするわけではなく、第一、二、三、五夜だそうで。『第十夜』は、全然違う始まり方です。

美しい話は(多分)1つだけ

『夢十夜』を想像する時に、幻想的な美しいお話を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

それ、多分『第一夜』です!

美しい女が現れ、男に「もう死にます」と言う。「死んだら埋めてください」「100年待っていてください。きっと逢いに来ますから」と。墓を掘って待ち続ける男。しかし女は来ない。やがて白いユリの花が1輪咲いて、男はその花にキスし、遠くの空に暁の星を見ると、もう100年経っていたことを悟る。

わぁ! なんて幻想的な光景!

ところが。
どうですか。なんですか、この『第十夜』は。

美しいのって、『第一夜』で、後はわりと不気味な話とか、おかしな話ばかりなんですよ。特に『第十夜』は、最もナンセンスだと言われています。

おすすめの漫画

冒頭でも申し上げたように、『夢十夜』はたくさんの映像や舞台になっています。それらの多くは、わりと艶やかなものが多く、どちらかというと大正時代以降の谷崎潤一郎や江戸川乱歩のようなテイストで作られているように見えます。また、独自解釈や映像ならではの演出が施されています。それはそれで鑑賞するととても楽しいです。

岩波書店から出ている近藤ようこさんの漫画は、とても素朴で淡々としていて、原作を文章で読んだ時とほぼ同じ感覚になる不思議な作品です。ぜひ読んでみてください。

第十夜は断トツでツッコミどころだらけ

さて。『夢十夜』については、歴史上、様々な分析や議論が試みられてきました。漱石の生い立ち、心理状態、歴史的背景、などなど。「この人物はこれを表しているのではないか」「このエピソードは、この出来事を風刺しているのではないか」などなど。

論文や本以外にも、感想、ブログ、考察コラムなどを読んでみました。真面目なものばかりでした。

しかし! 全部真面目に読む必要はないのではないでしょうか。

だって夢の話だからね。夢の話であり、めちゃくちゃすぎるからこそ、みんなの想像力を掻き立て、いろんな推論を立てることができるわけです。

特に、『第十夜』は本当におかしすぎるから。たまには文学を不真面目に読みましょう。

というわけで、我々が「おい!」と思ったポイントにツッコミを入れながら紹介していく記事になります。

第十夜のヤバイ登場人物たち

あ、でも、ツッコミを入れる前に、このお話、構造がやや複雑なので、説明します。

登場人物たち

この話に出て来る人たちが、とにかく変なんですよ!!

  • 自分:まず、「自分」というのがいます。夏目漱石さん自身なのでしょうか? 夢を見ている主人公です。
  • 健さん:「自分」は、「健さん」っていう人から夢の中で話を聞かされている、という設定になっています。
  • 庄太郎:「健さん」がしているのは、「庄太郎」の身の上に起きた話です。
  • 女:庄太郎をさらってひどい目に遭わせた「女」。

あとは、庄太郎が行方不明になって心配する親戚の人々や、7日後に帰って来たときに庄太郎を出迎えて心配する町内の人たちが出て来ます。

夢という構造に隠された仕組み

このお話は、トリッキーな構造になっています。

  • まず、この物語を書いている夏目漱石がいます。
  • 物語の中に、一人称「自分」という主人公が登場して語り出します。 
  • そして、その「自分」は、見た夢の中で「健さん」から話を聞くことになります。
  • 「健さん」が語る話の中には、「庄太郎」「女」そして「町の人たち」が出て来ます。「健さん」も、「庄太郎」と「女」が草原に行ったあたりのエピソードは伝聞で聞いたものだから、直接見たわけではありません。

つまり、夢の話である上に、夢の中でも伝聞で聞いているお話、というわけです。こういう何重もの入れ子構造になったものが、最終的に我々読者の元に届けられている。

さて、ここにはどんな効果があると思われますか?

これは完全に持論ですが。ここには、 “撹乱” と “信憑性” という、2つの矛盾した効果があるのではないかと考えています。

まず、 “撹乱” 。複数の人がどんどん出て来ることによって、こちらは混乱するわけです。脈絡がなく、次々と主観が入れ替わり、いろんな場面に連れて行ってしまわれ、視点がぼんやりしてくる。いかにも夢らしい状態を再現してくれていますね。夢を見ていると、前後関係があやふやだったり、自分が急に他人の視点から自分のことを見ていたり、上空からの視点になったりと、おかしなことが起きますよね。それを文章で体験させてくれているわけです。

ところが、伝聞という手法を用いることによって、撹乱とは相反する “信憑性” も同時に出て来ていると、わたしは考えています。つまり、語り手が「こんな夢を見ました」とストレートに見たものを語るよりも、「◯◯さんが言ってた」「◯◯さんから聞いたけど、こういうことらしい」「町のみんなが」という言い方をすると、架空空間なのに、なんだか社会みたいなものが垣間見えて、現実味を帯びてくる感じがするわけです。噂話と同じですね。

どうでしょう。夢という世界観の中に入念に入れ子構造を作っておきながら、信憑性を醸して巧みに読者を引き入れて、混乱させながら迷い込ませていくわけです。だから「わけが分からないなぁ?」って思うのではないでしょうか。なまじ、ちょっと分かってしまいそうな口調で語りかけてくるし、尻尾を掴みかけている感覚になるから。

(これは、一青窈さんの歌詞とか、クレヨンしんちゃんの映画版の世界観に似ている気がする……。)

はい、めちゃくちゃ偉そうに述べましたが、わたしは文学者ではないので、上記の内容には一切責任を持てません。

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