遠くに流れるキュウリ

きゅうり

 

さてさて、今回公開された『遠くで鳴る雷』。
どんな、お話なのか。
本編の後の、スズキヨシコ、吉田素子、梅田拓のトークを聞いた後、
この記事を読んでいただけましたら、幸いです!

 

まず、作者=小川未明(おがわみめい)さん。
この方は、「日本のアンデルセン」なんて呼ばれてる人で。
彼が日常生活において「おい、アンデルセン!」
などと呼び掛けられていたのかは謎ですが。
で、「紀州のドンファン」さんは、
「ねぇ、ドンファンさん」って呼ばれてたんですか?

 

アンデルセンの異名の通り、未明さんは、児童文学を書く人です。
大体、明治後期〜大正時代中心〜昭和初期に掛けて、戦前に活躍しています。
ちょうど、NHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』の時代なのです。
『花子とアン』のヒロインも英語の児童文学を翻訳していたのですが、
子どもの教育が発展し、海外から多くの児童文学が輸入・翻訳され、
ラジオでのお話の読み聞かせなども発展した時代です。
「児童文学界の三種の神器」などとも言われ、御三家の1人でした。
3人の中では、比較的、野口五郎ポジションでした。

 

小川さんの作品は、『赤い蝋燭と人魚』が有名なのではないでしょうか!
『遠くで鳴る雷』は、無名 of 無名です。

 

このお話の主人公は、少年二郎。(ラーメン二郎っぽい)
そして、あと、家族は母しか出て来ません。
トークでスズキさんが指摘している通り、
「二郎がいるからには、兄の一郎または太郎がいるはずだ」と思われます。
いきなり長男にあえての「二郎/次郎」って付けるのは、斬新すぎるし。
隠しキャラ、兄の「一郎さん」、どうしたんでしょうか。
自立したんでしょうか、メジャーリーグに行ってしまったのでしょうか。
祖父母や父も出て来ないし、三郎や四郎もいないっぽい。

 

大人の小説では、設定の細かさでリアリティーの底上げをするために、
本筋に直接絡んで来ない余分な人や物、地名が沢山出て来て、
その世界観に萌えたりするわけですが、
子どもは余分なことは頭に入らないから省くのでしょうか?

 

シンプルな物語世界。
中でも、ものすごいウェイトを占めているのが、キュウリ!
もはや、主人公は二郎じゃなくてキュウリなんではないかと。
タイトルは『遠くで鳴る雷』だけど、いや、「雷」なんて……。
最後の方にチョロッと鳴るぐらいで、キュウリと比べて、影、激薄ですから。
当時の出版社の編集さんは何を思ってこのタイトルにしたんだか。
『キュウリ』でしょ、絶対。

 

 

前半、すごいワクワクするんですよ、この話。
小学校の時、ホウセンカやアサガオを育て(させられ)ませんでしたか?
あの頃を思い出しちゃったりして、大変ほのぼのするんです。
この辺り、スズキさんの選曲で、
ピアノの練習曲っぽい感じが、大変よく合っています。

 

 

で、ある日、お母さんが遂に「GO!」と。
立派になったキュウリ!

 

きゅうり

 

お母さんが調理してくれて、おいしく食べて、ハッピーエンドだ!
まるかじりか? 浅漬け? 味噌? ピクルスか!?
って思って読み進めてたらですね!

 

お母さん、ドえらい変化球投げて来るんですね。
「これは水神様にお供えします」
「キュウリにおまえの名前書いて、川に投げて来い」
って言い出すわけですよ。

 

え!

 

ガクブルですよ。
丁寧な言葉で淡々と言うから、
なんかもう、母ってサイコパスなのかな、って思いましたよ。
いやぁ、「二郎は反抗的な態度を取らなくて偉いな」って思いました。
これがもし、そこらへんの並みの二郎なら、
「させるか!」「水神にやるキュウリなど無いわ!」
とか言って、その場でキュウリ丸呑みしちゃいますよ。

 

お母さん的には、水神様に捧げるために育ててたみたいですね。
二郎ちゃんがよく川遊びをするので、
水難事故に遭わないように、よろしくってことみたいです。

 

水神様というのは、「すいじん」とも「みずがみ」とも言い、
農業には欠かせない神様です。
何せ水田もありますし、畑にも水やりしますし。
河川の氾濫とか、日照りとか、天候にも関係あります。
怒らせずに仲良くやって行きたいわけです。
色んな姿がありまして、龍や蛇の姿をしたものであったり、
天女のようにひらひらした服装の女性だったり。
地域や、その池、川、滝などによっても、
伝わるお話や、祀ってる神様が異なってくるみたいですよ。

 

中でも、キュウリと言えば、カッパのイメージありませんか?
カッパ巻きってキュウリの海苔巻きですよね。
カッパはどっちかと言ったら妖怪カテゴリーじゃん? と思いますが、
かつては、水神様カテゴリーだったらしいです。
あと、ほら、カッパって相撲も好きじゃないですか。
好きなんですよ、相撲が。
相撲って、なんかもう最近はめくるめく色々がありましたけど、
元々は、神の前で行う、清い神事ですから。
カッパ=相撲好き=水神=キュウリも好き、です。

 

 

で、母の言い付け通り、川にキュウリを流す二郎ちゃん。
ボチャン。

 

この辺り、もう、アニメ『ラスカル』の最終回で、
少年スターリングがラスカルを自然に返すシーンぐらい泣けます。
初めて藁からミルクを吸ってくれたラスカル、
いたずらしたラスカル、一緒に眠ったラスカル、
俺のラスカルみんなのラスカル、
めくるめく走馬燈の思い出が脳内高速回転してる中、
ラスカルを残した岸から、小船で、涙ながらに離れて行くわけです。

 

「ラスカルー!!!!!!」

 

アライグマ

 

ほぼほぼ同じですよ。
あんなキュウリや、こんなキュウリ、
あの日のキュウリや、この日のキュウリ。

 

「キュウリー!!!!!!」

 

キュウリがこれからどんな目に遭うのか、今いずこか、
と、夜もぎんぎんにキュウリのことを考え続けてしまいます。
子どもの時って、そういう不安ありましたよね。
バスに置き忘れた傘が、今頃どこかで暗い倉庫で泣いてるんじゃないかって思ったり。
特に、夜1人で布団に入ってると、そういう怖い想像をしますよね。

 

なんていうか……ほんと……二郎ちゃん、きっとキュウリは大丈夫。
もしかしたら二郎ちゃんも薄々気付いてるかもだけど……
キュウリって、ほら、感情とか全然、無いじゃん?
「二郎を水神様の生贄にして村が守られる」的な話じゃなくて良かったじゃん!

 

で、この話、すごい展開が二転三転するんですよね。
わたしの想像力の限界では、
下流まで流れて行って、カッパが食べましたとさ、とか。
海まで流れて行ったキュウリは、広い世界を見ましたとさ、とか。
そんなもんじゃないですか。
とりあえず「はい、めでたし!」って感じだと思っていました。

 

ところが!
なんと、下流で乞食の子どもが発見して、拾っちゃうんですね。
初見の時(ぶっつけ収録でしたけど)声に出して「え!?」って言いました。
なんかもう、全く考えてもいなかったです、この筋を。

 

まず、わたしがびっくりしたのは、母と二郎以外の人物がいきなり登場したこと。
「人間、他におったんかい!」 っていう、その驚きが1番でした。
だから、この展開が何を表してるのか、色々考えましたけど、解らない。
「下流に貧困な集落があるのか?」「低層な階級の出身者なのかな」
「川辺の森で人目を忍んで暮らしてる親子なのかな」「水神の化身?」とか。
その人たちそのものに興味が湧いちゃって。

 

吉田さんがフリートークの中で言っているのは、
せっかく育てたキュウリを、
赤の他人が、いと簡単にかっさらって行くということに対する、
ちょっとした不満というか、「えー……」っていうガッカリ感。
これは完全に二郎目線で、子ども読者に最も近い目線だと思いました。
通過儀礼(キュウリと別れる)を経た子ども(主人公二郎)が報われず、
新参者の第三者(まだあんまり感情移入できない)が、得をした。
自分が努力したり、我慢したり、冒険したりしたら、当然、
褒められるか、何か手に入れるとか、報酬のある結末を期待します。
そりゃ、「えー……」ですよ。

 

梅田くんが唱える説は、ちょっと違って。
二郎が育てた命、キュウリというバトン、
これが、川・水という命の象徴である線を伝って、
別の子ども、すなわち、二郎と同じく未来ある存在に渡されると。
「乞食」と言うからには二郎の家庭よりも圧倒的に貧しいでしょうし。
この子はしかも、発見して拾い上げたキュウリを、その場で食べず、
恐らく同じく貧しく飢えている、母と妹に持ち帰るのだ、と。
持てる者から持たざる者への命のリレー、みたいな解釈をしたようです。
そして、ここで遠雷が鳴って「もう夏であります」と。
新しい季節への予感、夏の清涼感まで出してるんだそうな。

 

うわぁぁぁ! 達観してるよぉぉぉ!
梅田くんはもしかしたら、平成の日本において、
最も小川未明のソウルが解るメイトなんじゃないですか?

 

わたしはと言えば、
「最後に適当に雷鳴らして、ちょっとタイトルに寄せて来るのかよ!」
と思った。
以上です。
本当に文学専攻で卒業したんですかね。

 

雷

 

ちなみに、「遠雷(えんらい)」って、
遠くでゴロゴロ言ってるイメージですか?
それとも、遠くでビシャーンって鳴ってるイメージですか?
文中からは、どっちともつかないです。
ただ、数キロ先まで迫って来てます、音が聞こえてるってことは。
遠くでも意外に近いので、気を付けなければ。

 

作中では「もう夏であります」と言っていますが、もう……秋であります。
キュウリが1番おいしいシーズンを、がっつり外してしまいました。
(6月14日が世界キュウリの日らしいですね)
なので、今年はまぁ、楽しかった夏を思い出しながら聞いていただいて。
来年の6月に、もう1度聞いていただきたいと思います!

 

5分の稽古で収録しちゃいました!

今回は、小川未明『遠くで鳴る雷』の収録!
この作品、ナレーションは、演出のあが務めました。
収録日に到着して、その日、初めて読みました。
練習してないんかい!
してないですね。

 

「なんか、もういいよ、大丈夫だよ、読めるよ、短いし」
と、オレオレ詐欺チームの誘い文句のように、スズキさんに言われ、
1回サラッと目を通して、ほぼほぼ、ぶっつけで録りました。

 

酷い話だ!

 

とはいえ、そのぐらいの気軽さ、手軽さ、身軽さで録れるのが、
単独(短編)作品の醍醐味かな、って思っています。
『竹の木戸』や『秋』のように、
大勢で「ああでもないこうでもない」と議論や稽古を重ねるのも一興、
1人で声のトーンやペース配分を考えてインスタントするのもまた一興。

 

で、迷ったのが、読み方です。

 

朗読にも、歌のボーカルのようなところがちょっとありまして。
同じ人がカラオケに行ったとしても、
ぱみゅぱみゅを歌う時と、SUPER FLYを歌う時で、
全部同じ自分の声、同じトーンで歌う人っていないと思うんですよ。
さすがに、完璧な物真似を目指したりはしなくても、
無意識に、雰囲気を本人に似せて歌ってるんじゃないでしょうかね?
そんなに歌がうまくないっていう人でも。

 

朗読やアナウンスでも同じことが言えると思うんです。
作品やニュースの内容に合わせて、声のトーンやスピードを、
意識的に、または無意識に、変えている人が多いと思います。
大御所俳優さん、人気声優さん、有名な朗読の先生とかは、
求められているコンテンツが、その人の声や癖そのものになるため、
また話は別なのでしょうけれど。

 

『遠くで鳴る雷』は絵本のような、児童向け文学です。

 

春に吉田素子さんが読んだ、芥川の『蜘蛛の糸』も、
児童向けに発表された作品ではありますが、
舞台が地獄だったり、仏教用語が多かったり、
口調も丁寧な言葉で、なんだか重厚感がありまして。
吉田さんの、深い、諭すような、落ち着きボイスが似合っていました。
「吉田素子ここにあり」って感じでしたね。
(ちなみに、吉田さんはポケモンとかディズニーに出て来そうな、
アニメっぽい可愛い声も出せます)

 

遠くで鳴る雷

 

さてさて、対して、このお話『遠くで鳴る雷』は、
ひたすら夏休みの絵日記みたいな、ほのぼのした雰囲気です。
教訓めいたものも見当たらないよ。
さて、どうしたものか。

 

直近でノアが読んだのは、芥川の『蜜柑』ですが、
これは、やや低めの声で、腹式呼吸で、真面目にやりました。
頭の中で常にNHKのアナウンサーを思い浮かべて読みました。
ちなみに推定48歳、黒髪ショートカット、グレースーツ、ファンデ白め、
英語ペラペラ、NHKスペシャルの戦争物常連、です。
知らんがな。

 

こんなこと考えながら読むの、ちょっとバカみたい、って思いますけど、
元の顔や声に個性や自信が無い人間っていうのは、
「鉄板」「必殺技」が無いわけです。
なんだか今まで蓄積した色んな引き出し開けてみたり、
新しくダウンロードしてみたりしないと、いけないわけです。

 

しかも、裏設定をしっかり決めたら、
それを徹頭徹尾、忘れないように演じきらないと、
途中でキャラ変わって来ちゃうんですよね。
技術が無いのも相まって、喉のポジションがブレブレになって、
急に声が低くなりすぎたり、気分で若くなっちゃったり。
物語の大筋の盛り上がりやペース配分と違うところで、
妙な違和感を感じる、変化が来ちゃうわけです。

 

そういえば吉田さんも、お釈迦様は小日向文世さんを、
カンダタのセリフのとこは千鳥の大悟さんを、
それぞれイメージして読んだらしいですが。
たとえ個性があっても、やっぱり妄想って必要らしいです。

 

さて、『遠くで鳴る雷』を『蜜柑』と同じNHKトーンで読んだら、
淡い淡い、夏休みの絵日記の水彩画が、
どんよりフランドル画のように重たくなっちゃいそう。
というわけで、ちょっと軽めの声と口調で行くことにしました。

 

どのぐらい軽くするか、で迷いましたが、
そうだ、NHK総合じゃなくて、Eテレにしよう!
という謎の横滑り。
「宮沢りえちゃんが、動物番組とかCMでナレーション当ててる風」
という謎の設定をダウンロードしてみました。

 

口角を上げたまま、ちょっと喉の奥めから、息まじりに声を出す。
母音に「 ゛」を付ける気持で。
基本、のほほんと楽しそうに読んで、
悲しそうな場面は、ちょっとしゅんとする。

 

これでなんとかなるだろう!

 

鬼監督スズキさんに
「はい、もういい? 読み方決まった? 行くよ!」
と、機材のスイッチをポチられ、
いざ、収録!

 

意気揚々と1ページ読み終わり、
早速つまずいたのが、セリフの部分です。
なんと、主人公の少年、二郎と、その母、登場!!!!!

 

おえ!?
これ、人が出て来るの?
そして、どっちもうまく読めません!!!!!!

 

これは、なかなか意外なアクシデントに足を取られました。
「1920〜1950年代の洋物の映画に出て来る親子」にしかならないんです。
すっごい、お金持ちのお家のボンと、上品なお母さんみたいな。
声に、どうしても角というか、輪郭、エッジがあるっていうか、
キーン、リーン、と響きみたいなものがくっきり出てしまうらしく。

 

いくつもの二郎、いくつもの母を試しましたが、
スズキさんに却下されました。
「いや、その二郎、絶対に金髪だろ、キュウリ育てないだろ」
「母、上流階級じゃん!」
このままでは、ドレスにつば広帽で紅茶をいただく母と、
セーラー服で子馬に乗る二郎になってしまう!!!!!

 

伝わらないと思うんで、絵にしてみたんですけど、
どうも、こんな感じの世界観になってしまうんですよ。

 

 

ファンの人には怒られそうですが、萩尾望都風に描いてみました。
数分で書いたので許してください。

 

そこへ、録音室の重たい二重スライドドアが、
ガラッ、ゴゴーッ!
と開いて現れたのが、救世主、吉田素子さんです。

 

スズキ「ねぇ」
ノア「母を読んでよ」
吉田「おう。え……は? あたし『秋』を読みに来たんだけど!?」

 

遠くで鳴る雷

 

ということで(?)吉田さんが母の役になりました。
自動的に(?)スズキさんが二郎ちゃんの役になりました。

 

 

酷い話だ!

 

この記事の冒頭で単独作品の魅力について語ったのに、
もう早速、矛盾して来ましたね。
そうです、これは、実は、複数名出演作品なんです!
あっははは!

 

『遠くで鳴る雷』のフリートークでは、そのお2人が、
当日、いきなり役を振られた理由はあんまり詳しく述べていませんが、
戸惑った心境を明かしています。

 

さて、スズキさん曰く、「飛び込み二郎ちゃん」ですが。
少年らしく、ピュアで、素朴で、いい感じですよね!
空気にフワーッと溶けていくような声が、子どもらしくて。
スズキさんって、日常でもよく、
不安そうな、困り眉のような表情をするのが印象的なんですけど。
キュウリへの心配をする感じがリアルです。

 

そんなスズキさんの演技に引っ張られ、
「無い母性が、出たよね!」という吉田さん。
こちらは、『トトロ』に出て来る、
サツキちゃんとメイちゃんのお母さんをイメージしたそうです。
時代が同じなので、まさにぴったり合っています。
包み込むような、落ち着いた、温かな母の声、素敵です。
ドレスじゃなくて、ちゃんと着物とか割烹着とか、してそうです。

 

まぁ伝わると思うんですけど、一応描いてみました。
そうそう、これだよ、これが求めてたお母さんと二郎ちゃんですよ!

 

 

ほんとに戸惑ったのかな? って思うぐらい、
やれって言われて、いきなり演じられるから凄いですよね。
トークで言わなければ、当日、突然役が決まったこと、
バレなかったと思うんですよね。
2人とも5分ぐらいしか練習してないですもん、ホントに。

 

この作品の見所、いや、聞き所? は、
いきなり振られて読んだ2人のセリフ部分のナチュラルさ、です!
自信持ってオススメします。

 

いろいろ推理! 汽車の旅

 

芥川龍之介『蜜柑』の世界について……
物語の舞台になる横須賀に行ったり、
物語に登場するSLが走っているところを間近で見たり、
色々経験致しましたので、少しお話しようと思います!

 

蜜柑メインビジュアル

 

まず、『蜜柑』の主人公「私」について。
フリートークの中で、スズキさんと吉田さんが話していますが、
「私」って、何歳ぐらいの、どんな人だと思いました?
吉田さんは、「男だと思った」と言ってましたね、
「だって、新聞読んでるし、煙草吸ってるし」と。
そう感じる人は多いと思いますよ。
そしたらスズキさんに、「はい、それがあなたのジェンダー感です」とハメられましたね。
吉田さん、「くそっ!」と悔しがってましたが。
まぁ確かにこの話、主人公は女性でも老人でも、成り立つと言えば成り立つのですが。
吉田さんは、あながち、間違っているわけではないんです!

 

 

解説にも書きましたが、このお話は、芥川さんが実際に体験したことを書いているとされています。
本当かどうかは解りません、もう芥川に訊けないし……残念!

 

じゃあ、どうして実体験とされているか、と言いますと、
この作品が最初に雑誌に発表された時は、
『私が出遇ったこと』の、『一、蜜柑』として掲載されたからです。
つまり、「芥川のリアル体験シリーズ!」のコーナー、その中の「エピソード I:蜜柑!」なわけです。
(どうでもいいですが、もう1つあるエピソードII『二、沼』の方は、
『一、蜜柑』より、更に本当かどうかよく解らない感じの話です)

 

そしてまた、主人公の「私」という人物が、どうも芥川さんの状況と重なります。
芥川さんは、大学を卒業後、大正5年から8年、
横須賀海軍機関学校に、英語の教官として務めていました。
このお話の時期設定は、
新聞の記事が第1次世界大戦の「講話問題」で埋め尽くされていることから、
大正7年であると推測されます。
そして、芥川は、鎌倉の家と職場との行き来に、横須賀発上り列車を使用していたんですね!
今でも防衛大学がありますから、
横須賀の街を歩いていると上下白の制服に帽子を被った学生を沢山見掛けます。
そんな、若く、志を持つ学生さんたちに教えていたのでしょうか。

 

 

芥川は、作家として作品を発表しつつ、収入のために教師を兼任していました。
婚約者への手紙の中でも、芥川自身、
「作家は今の日本で1番儲からない仕事だと解っている」と書いています。
当時、若くて無名な作家をしながら記者をしている人などが沢山いました。
現代でもそうですよね、
俳優の卵をしながら、夜は居酒屋でアルバイト、
細々と作曲家をしながら、自宅の居間でピアノの先生……
芸術家は、高収入でなければ、兼業している人の方が多いことでしょう。

 

でも芥川は、小説だけ書いていたかったんですね。
友人や婚約者への手紙の中では、この兼業について、
「不愉快な二重生活」であると、苦しみや屈辱を語っています。
まぁ、愚痴ですよね、愚痴。
なんか、芥川って、愚痴っぽいですよね!(偏見)
当時で英語の先生って言ったら、結構いい仕事だと思いますけどね。
そこは、小説1本で行きたいっていうプライドがあったでしょうし、
仕事してる時間も執筆に当てて集中したかったのでしょう。

 

噂によると、芥川は勤務最終日、庭先で、
「もう使わなくていいんだ! ファイヤー!」とばかりに、
英語の教科書を燃やしてメッチャ喜んだそうですから、
それほど、本当にイヤだったんですね!

 

で、お話の方に戻って、主人公「私」を見てみましょうか。
メッチャ、暗い!
暗いよ!

 

お話始まった1行目の1語目から、冬だし、曇ってるし、日暮れだし、
駅はひとけ少ないし、犬は悲しげに泣いてるし。
なんだか、景色も音も、悲しげでつまらん感じです。
主人公は、汽車に座って、これらの景色を眺めたり、新聞に目を通したりしてるんですが、
登場一発目から、ずっとダルそう。
何があったんだよ!?
そしてめっちゃ「疲労と倦怠」を強調してくるわりに、理由や回想シーンなどは語られず。
背景を読者に共有する姿勢、一切なし。

 

実は、大正時代に「厭世家(えんせいか)」っていう1つのスタイルが流行ったんだそうですね。
この主人公は、その走りとも言えるようです。
ちなみに「厭世」というのは、形容動詞で、
「人生に悲観し、生きているのがイヤになっている」こと。
だから、厭世家は、理由とか経緯はどうあれ、厭世してるっていうわけです。
「もう、そういう人なのよ、俺は!」っていうことですね。
基本、自分自身とか世の中をつまらなく感じてて、不機嫌。
まさに、この主人公です。

 

時代は進みますが、1950年代、第二次世界大戦後、いわゆる冷戦時代にも、
イギリスを中心に、ロックの音楽などの走りで、そういうのが流行します。
舞台『怒りをこめて振り返れ』の主人公ジミーは厭世家の極み。
最初から最後まで、とりあえず全てに怒り散らして、世界に絶望しています。
戦争や大改革の前後、社会全体の風潮として、
若者が絶望したり、無気力になったりする、
逆に怒りに駆られたりする時代っていうのが、度々あるんですね。

 

まぁでも、仕事に疲れた現代人とかの方が、
この「私」の気持ち、解るかもしれないですね。
人生こんなはずじゃなかった、何やってるんだ自分は?
不景気のせいなんじゃないの?
○○政権のせいなんじゃないの?
年金もらえるの?
残業とか過労死とかしたくない!
こんなもののために生まれたんじゃない!(®鬼束ちひろ)

 

本当にあったお話かどうか解らないので、実在の人物なのか定かではありませんが、
もう1人の重要な登場人物は、「小娘」さんです。
自分の想像では、人形作家の与勇輝さんが作るお人形さんのようなイメージですな〜。

 

まず、「小娘」って呼び方はどうなんだよ! って話ですよね。
ここでは「少女」って呼んでおきましょうね。
主人公の、少女に対する評価は辛辣です。
汚い、落ち着かない、貧乏くさい、田舎くさい、不愉快、みたいな。
読んだ人はほとんどみんな、
「ひどい! 何様!? 上から目線!」って感じるんじゃないでしょうか。
スズキさん・吉田さんからの主人公への好感度はとりあえず、
10段階中、マイナス3ぐらいですね。

 

スズキさんが指摘しているのですが。
主人公が乗っている車両は二等客車で、今で言う指定席のグリーン車です。
当時、横須賀線の二等車は、軍隊関連の人や収入が高い人が使っていたようですよ。
少女の手に握られているのは、三等客車の切符。
追加料金を払ってないので、本来、違う車両にいるべきなんです。
「俺の、素敵グリーン車空間がぁぁぁ!」というのが、
主人公のイライラなのではないか、という。
主人公は、疲れてるから、静かに寛ぎたくて高い券買って、
やっとシートに座って一息ついたのに、
なんか空気読めない、うるさい音立てる、身なりの汚い子どもと相席になった。
「余計、疲れるじゃん、俺!」ということなのでしょう。
確かに、これはちょっと同情できるかもしれない。

 

少女は世間知らずで、料金のことなど、あまり知らなかったのでしょう。
汽車に乗るのだって、初めてだったかもしれませんよね。

 

それを裏付けるエピソードがありまして、
少女は旅の途中、トンネルの中で、汽車の窓を開けようとするんです。
現代人にはピンと来ない内容なのですが、
汽車に乗っていて、特にトンネルの中で窓を開けるのは、
絶対にしてはいけないNG行為です。

 

汽車の煙突からは、煙や煤が出続けています。
窓を開けると、多少なりとも、風に流れてこれが車内に入って来ます。
トンネルの中では、狭い空間に、更に煙と煤が充満しています。
ですから、トンネル付近にさしかかると警笛が鳴らされ、
乗客は慌てて窓を閉める、というのが通常です。
それでもやはり多少入り込んでくる煤には悩まされたようです。

 

 

機関士さんなど乗務員は更に酷く、
1日の業務を終えると、顔もシャツも煤で真っ黒、鼻の中や口の中までジャリジャリ。
濡れタオルやゴーグルを使用して業務に当たることも。
それでも長いトンネルや設計の悪い古いトンネルでは、
機関士さんが気を失う、死亡する事故もありました。

 

だから、トンネルの中で窓を開けるなんて!
煙モクモクで、目も口も開けていられる状態ではないと思います。
実際は、文章で書いてあるよりも、もっと苦しいのではないでしょうか。
主人公が咳こんで呆れたり腹を立てたりするのは、当たり前かもしれません。

 

それもこれも、トンネルを抜けた先で、
感動のクライマックスシーンを描くため。
そして、その瞬間に、主人公のイライラも和らぐわけですが。

 

さて、トンネルの話になりましたので、横須賀線の話をしましょう。
「トンネルが多い横須賀線!」と主人公が言う通り、
三浦半島の中は山が多いので、本当にその中を縫っている感じです。

 

これは、横須賀駅。
実際に行って来た時の写真です。
レトロで可愛い雰囲気ではありますが、
残念ながら、芥川が通った頃の大正のものではありません。

 

 

駅前には、特に何もありません。
海、って感じです。
元々、横須賀は軍港で、明治22年、
港から物資を輸送するために、大船との間に線路が開通しました。
もともと人が住むための場所ではなかったわけです。
戦争が終わると、こういった線路は次々に廃線になりましたが、
横須賀線は、戦後もあちこちに延びたり繋がったりして、
今に至るまで、市民の生活路線として重宝されています。

 

 

ちなみに、横須賀駅には、『蜜柑』のために行ったのではありません。
京浜急行電鉄本線の、横須賀 “中央” 駅に用事があったのですが、
完全に駅名ミスって、間違えて辿り着いちゃいました。
でも「あ、ラッキー、『蜜柑』じゃーん♪」って思って、写真撮りました、えらい!
横須賀中央は、横須賀より少し東南の方にありますが、
皆さんが期待する「THE☆横須賀の街」というのは、こちら側になります。

 

 

米軍基地があり、外国人が多く、繁華街があり、カレー屋さんがあり、
港には第一次世界大戦で活躍した軍艦の「三笠」があって、
東郷平八郎さんの像が立っています。
賑やかで、おいしいお店がいっぱいあって楽しい所なので、
是非、行ってみて下さい。

 

 

横須賀駅のすぐ近くに、さっそくもうトンネルがありました!

 

 

で、蜜柑の舞台、つまり少女が蜜柑を投げたポイントは、
どのトンネルなんでしょう?

 

 

横須賀駅を出るとすぐ、最初のトンネルがあります。
主人公が「最初のそれに入った」と言っているトンネルです。
トンネルを抜けると、吉倉の街。
吉倉公園には、『蜜柑』の石碑があるようですね。
あるのは知ってたけど、間違えて着いた場所だし、時間ないし、
めんどくさくて行ってないので、写真はないです(行けよ!)
なので、この最初のトンネルが蜜柑ポイントだ! とする人もいます。
でも、主人公って、1回ウトウト眠ってるんですよね〜。
そして少女が窓を開ける音で目を覚ますんです。
ここが蜜柑ポイントだとすると、寝て起きるも、景色変わるのも、早すぎませんか?
という声もあります。

 

 

で、次は長浦の辺りでトンネルが2つあります。
1つ目がそこそこ長くて、2つ目の短いトンネルを抜けるとすぐ、田浦駅。
この辺が蜜柑ポイントなのではないか、というのが定説だそうです。

 

そして、ウトウト時間を考えると、もっと先なのではないかとも言われています。
田浦駅を出てすぐ、もう1つ長めのトンネル。
この辺になると、路線が東の海沿いからグッと半島を西側へ横切り、
逗子・鎌倉の方に曲がっていくところです。
だいぶ、山っぽい雰囲気に変わります。
また、鎌倉に向かう芥川の帰路の中間地点ぐらいです。
なので、この辺りがピッタリなのではないかという人も……。

 

確かなことは判っていません。

 

確かでないことと言えば、このお話に出て来る、当時の横須賀線の二等車、
横須賀線ということでボックス(クロス)シートのイメージが強いですが、
ロングシートなのではないか、という説が濃厚です。
なんか、イメージ違いますね。

 

では、何故そう言えるのか!!!!!

 

これは、「何故って、当時の横須賀線は、そうだから」っていうのを、
他の小説に出てくる描写とか、いろんな資料から、
鉄道オタクの人たちがいろんなサイトで言ってるんですけど。
1つ、うちのスズキさんが、実に理論的に明確に説明しているので、紹介します。

 

物語の中では、「私」が目を覚ますと、
少女が自分の席に隣に来て、窓を開けようとしているんですよね。
せっかく静かにうとうとしていたので、
隣で窓をバタバタやってて、うるさいわけです。
鼻水すする音もスンスンするし。

 

さて、ここがポイントなんです。
「私」の “隣” です!

 

クロスシート、またの名をボックスシートっていうのは、
通路(電車の進行方向)に対して垂直に、
2人掛けの席が向かい合って、箱型になっているタイプです。
2人で向かい合ってもよし、4人でワイワイ座ってもよし。
知らない人と相席になるのも、
コミュニケーションが生まれたりして、また一興。
のんびり駅弁食べたりするイメージですよね。

 

 

もし2人がクロスシートに座っているとしたら?
こうなります。

 

 

お気付きになりましたでしょうか!
「小娘」さんは、向かい側にいるまま自由に窓際に移動できるわけで。
別に、わざわざ、「私」の隣に移動してくる理由が無いんですよね。
万に1つ考えられるとしたら、少女の隣=窓際に、誰か腰掛けていた場合。
でも、後から来て、わざわざ少女の前を通って、通路より遠い窓際に座るでしょうか?
また、もう1人いたら、「私」はその人について何か書くでしょう。
なので、見える範囲で、2人きりだったと考えられます。

 

これがロングシートだと、文章の内容が合致します。

 

ロングシートは、電車の通路(進行方向)に対し平行に、
窓に背を向けるようにして、座席が向かい合っています。
名前の通り、1席が長いです。

 

これだと、向かい側に座った「小娘」さんが、
「私」の隣に移動してくる理由があるんです。
少女が座った側ではなく、「私」が座った方の窓から、蜜柑を投げたい場合、です。
こっちの窓からじゃないと弟たちが見えない、だから移動して来たわけです。

 

 

いかがでしょう?
ご納得いただけましたでしょうか?

 

あと、座席以外にも、当時の客車の特徴が!
少女の動作が窓を開ける描写から、
窓が上から下へパタンと落とすタイプの物であることが判ります。
え、どうでもいいですか!?
なんか、鉄道オタクの人の間では、そういうのが大事みたいですよ。
今回お話について調べる中で、『鉄道文学の旅』という本を見付けました。
鉄道オタクの方のサイトでも、『蜜柑』はよく取り上げられています。
芥川さんは結構、鉄道での話を書くので、
「鉄分がある」作家なんじゃないか、などと言われているようです。

 

そういえば、栃木にて、SLの「大樹(たいじゅ)」を見て来ましたので、写真を載せます。
東武線でSLを復元して走らせているんです。
このために、駅や制服をレトロっぽくリニューアルしたり、
乗務員が訓練を積んだりと、力を入れているようですね。
駅の中にパネル展示の部屋も併設されていて、じっくり読んできました。

 

 

カフェの中から、ガラス窓越しに、SLがターンをするのを見られるんです。

 

 

方向転換するのに、一度本線から脇にそれて、この場所を使うんですね。

 

 

360度回転するので、全方向から見られました。

 

 

乗務員さんが手を振ってくれます。
鉄道ファンもそうでない人も、みんな動画や写真を撮っています。

 

 

思いっきり飛び跳ねてアピールしたら、笑顔と目線と、強めのウェーブいただけました。
ありがたい。

 

 

印象としては、「意外に小さいんだな」って思いました。
もっと、物凄く大きい物を想像していました。

 

 

ただ、蒸気と汽笛の音の迫力は、すさまじいです。
かなり大きな音で、子どもによっては泣き出しちゃう子もいるほど。
遠くまで聞こえる音で、駅付近だと、街中にいても聞こえて来ました。
いやぁ、圧巻でした。
身体が振動するようなこの音を、効果音ではなく、
生で、間近で聞けると思っていませんでしたので、
歴史も感じるし、なんだか感傷的な、感動的な気持になりました。

 

旅先での、一瞬一瞬の出会い、大事です。
蜜柑が空に飛び散る的な! 印象的な出会い! あるといいですね!