夏目漱石「夢十夜 第十夜」|考察|「こんな夢を見た」…見るな!

ゆるっと考察
夢十夜「第十夜」
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それでは、ここからはいよいよ、登場人物を細かく見つつ、ツッコミを入れていきましょう。

まぁまぁやばい主人公 庄太郎

1人目はもちろん、中心人物、庄太郎。

まず、彼は町内一のモテ男で、すごく善良で正直者だそうです。良さそう。

しかし、彼には趣味がある、それは、夕方から果物屋の前で座って、通り過ぎる女の顔を見ては、しきりに感心すること……「そのほかにはこれというほどの特色もない」

って、次の文ですぐ切り捨てるんですよね。

いやいや、さっきほめたじゃん!
しかも特色がその趣味だけってどんなヤツだよ!

結構な趣味ですよ、「女を見る」……

バードウォッチング的な?
そして、あんまり女が通らない時は、果物を眺めてるらしい。

暇すぎ……!!!!

どうやって生計立ててる人なんですかね?
あ、この果物屋さんの人か。
と思うじゃないですか。
違うらしい。
「やっぱ商売するなら果物屋に限るよね」的なことを言いながら、自分は特に店をやるわけでもなし。
時々、夏ミカンを眺めて「色がいい」とか品評する。
でも、絶対お金を出して果物を買ったことはない。

めっちゃ迷惑!

何しに来てるんですか、他人の店に。
女が通らない時は家に帰りなさいよ。
この店の店長はどう思ってるんですかね。毎日毎日、パナマハットかぶった庄太郎がヘラヘラ店頭に座ってること。プチ営業妨害じゃないですか。現代なら間違いなく通報モノ、または動画で拡散されて夕方のニュースになる案件かと思われます。

でも、町内の人からは、別に呆れられも見放されもせず。庄太郎がさらわれたり熱を出したりしたら、みんな凄い心配してるんですよ。
何故かっていうと、やっぱり、庄太郎がいいヤツだからだと思います。なんたって、善良で正直。

いいヤツなので、ある時タイプの美女が現れて、果物のカゴをさして「これを下さい」って言ったら、庄太郎は、すぐに取って渡して差し上げるわけです。

って、待って庄太郎!
お会計した?
そもそも自分のお店じゃないし、店員気取りでカゴ渡すなよ!

そして庄太郎、やっぱりいいヤツなので、女が「カゴが重たい」って言ったら、「家まで持ってってあげる」って言って、ホイホイついて行ってしまうわけです。
ここでも漱石、「庄太郎は元来 閑人(ひまじん)の上に、すこぶる気さくな男だから」って書いているんですが、ちょいちょい庄太郎に毒を吐くのは何なんでしょう? 愛情の裏返し?

1番ヤバい人 健さん

もう1人、ヤバいヤツを紹介します。なんと言っても、健さんですよ。

物語の1番初めの文は、庄太郎が女にさらわれて、7日経って帰って来たら熱を出して寝込んでる! って、「健さんが知らせに来た」っていうところから始まります。

健さんって誰!? 
健さんって言ったら、かの有名な不器用な健さん?
いきなり登場して、特に何の説明もなし。おそらく町内の仲間なのでしょう。

そして庄太郎から聞かされた、「女にさらわれ、崖っぷちに連れて行かれ、豚の大群と戦った」という一連の流れを語り終えて、健さんが放った一言が、こちらになります ↓

健さん「だからあんまり女を見るのはよくないよ」

……え! そこ!?

自分「自分ももっともだと思った。」

自分、まさかの同意!?

この話の教訓は、「あんまり女を見るのはよくない」ということになりそうです。まぁ、たしかによくないよ。みなさんも、女を見る際は気を付けてください。

そして、衝撃の結び。

自分「けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいといっていた。庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう 〜fin〜」

健さん!! サイコパス疑惑!!!!!

「庄太郎、もう死ぬっぽいし、あの帽子ほしいなぁ〜」ってどんな友人ですか。形見分けフライング。

そしてそれを平然と聞いてる自分も自分でしょう。どういうテンションなんだろう??
でも、そこがまさに夢っぽいところなのかもしません。夢の中で、物凄い恐怖や焦りを覚える時もあれば、逆に、現実ではもっと焦るようなことが起きていても、何故か冷静に受け入れてしまったり。

健さんとは、一体何を表しているのでしょうか。同じ町人の友人をすごく心配しているようで、「自分」に伝えに来たのに、助からないと分かったら、その人の物をチャッと取っていく人。

『第十夜』に出て来る美女は、『第一夜』に登場するのと同じ美女なんでしょうか? それとも、違う美女なのでしょうか? わかりませんね。そこは明かされていません。

どちらにしても、夏目漱石の他の様々な作品に出て来る、大人しくて謎めいた青白い美女像に、近いものがあります。そして、『第十夜』の登場人物、庄太郎は、実は『第八夜』にも出て来ます。
主人公は「自分」。この「自分」も、『第十夜』と同じ自分かどうかは定かではありません。

その「自分」が床屋に行くと、鏡の中に、パナマ帽子を被った庄太郎が歩いて行くのが映り込みます。庄太郎は、いつの間に捕まえたやら、女を連れて歩いている。女の顔をよく見ようとしたら、もう行っちゃった。

この鏡に映ったのは、もしかしたら、『第十夜』で庄太郎が女について行ってしまった、その瞬間なのかもしれません。そう考えると、ちょっと監視カメラの映像とか、目撃証言っぽくないですか? 鏡越しというのが、また良い。

こうして、一見全く関係ない話同士に微妙な関連があるのは、面白いですね。夢って、時々、はちゃめちゃでナンセンスなわりに、妙にリアルなポイントが混ざっていたりするものです。

このシリーズは新聞に連載していたものですが、『第八夜』を書いてから、そこに出て来た2人を再度登場させたのでしょうか。それとも、全部の構想を済ませてあり、『第十夜』の2人を『第八夜』に予告のようにちょっと出しておいたのでしょうか。謎です。

果物をめぐり、女が男をたぶらかし、男がひどい目に遭う……その要素は、ちょっと旧約聖書のアダムとイヴの話っぽいな、とも思いました。

庄太郎が嫌いなものランキング!

これまた、なんじゃこりゃ、と思ったポイントを紹介します。

さて、女が庄太郎を崖っぷちに連れて行き、「ここから飛び込んでごらんなさい。思い切って飛び込まなければ、豚に舐められます」と言った時のことです。

(いや、それ自体、そもそもどういう条件なんですか。)

自分「庄太郎は豚と雲右衛門(くもえもん)が大嫌いだった。けれども命にはかえられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合わせていた」

またサラっと流しそうになったけど。雲右衛門って……誰!?

2位 雲右衛門

クモえもーーーーーーーーん!!

サラッと出て来て次の瞬間には豚がブーブーやってきてクライマックスになってしまうので、何のことやら分かりません。

桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)さんは、明治から大正に掛けて活躍した浪曲師。
すごい売れっ子で、それまで社会的地位が低かった浪曲を、立派な文化芸術として認められるまでに引き上げるきっかけとなった人。レコードも出している。彼を主人公にした映画や小説まであるようです。

で?
なんで嫌いなの?
なんで豚と並列で嫌いなの? 他に嫌いなものはなかったのかい??

「嫌いな芸能人」みたいな。
雲右衛門からしたら、とんだとばっちりですよ、急に新聞連載の小説で誹謗中傷されて。これが有名税ってやつですかね。

以下はちょっと調べかじったところからの推測です。

当時の日本と言えば、幕末の分裂を乗り越えてようやく一つの国家として成立したばかりの国。つまり、当時「お国はどこだい?」と出身を問われれば、みんな「わたしは薩摩藩の出身で」とか「◯◯村の◯◯家の次男坊で」とかいうアイデンティティーはあるけど、強く「わたしは日本人です」とは思っていなかったわけです。世界大戦の舞台で肩を並べ、他の列強諸国に対抗するためには、国民が統一された意識と、日本への愛国心を持つことが必要でした。

ここで「天皇を頂点とした一つの家族である」という考えと共に、古き善き「武士道」も見直され、大きな役目を担いました。「武士道」と言えば、新渡戸稲造さんが本にまとめたことが有名です。大衆の間でこれを広めたのは、雲右衛門ら、浪曲師でした。武士が登場するお涙頂戴な物語、例えば「忠臣蔵」などの義士伝が人気を博し、実質、宣伝塔となったのです。

漱石のようにジャーナリズムや文筆で勝負している人からすると、雲右衛門らのように元々卑しい職業とされる人たちの芸に大衆が流れていくのは、面白くないことだったのかもしれません。

やっぱ、嫌いな芸能人みたいな感じかもしれません。「みんなキャーキャー言ってついてってるけど、俺は、アイツはなんか違うんだよな。本物じゃないと思うぜ」みたいな。ただ、八つ当たりで嫌われるぐらい人気者で有名人なんだから、やっぱりすごい人ですよね。

1位の豚さんに戻ります

ところで、先ほども聖書に似ているという部分に触れましたが、この「ブタの群れ」も『新約聖書』に登場します。このエピソードは、

  • マルコによる福音書 第5章
  • ルカによる福音書 第8章
  • マタイによる福音書 第8章

と、3つの福音書に載っています。

新約聖書というのは、イエス・キリストが神について語ったことを、主にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4名の編集者によって、それぞれの観点から編纂されたものを合わせて作られているので、同じお話が何度か出て来るんですね。

さて、お話はこうです。

イエス一行が “ゲラサ人の地” に行くと、おびただしい悪霊にとりつかれた男と出会いました。イエスは悪霊と話し合いのすえ、近くにいた豚の群れに乗り移ることを許可します。すると悪霊がとりついた 豚たちは次々と崖から湖へ落ち、溺 れ死んでしまいました。

というもの。イエスの悪霊払いの力を示すエピソードのひとつです。

「マルコによる福音書」の記述では、豚は2000匹おり、まさに地平線も埋まりそうです。「マタイによる福音書」の記述では少し違い、地名が “ガダラ人の地”、悪霊につかれた男は “2人” となっています。

夏目漱石はイギリスへ留学し、英文学を研究していましたから、聖書の知識があり、影響を与えたのかもしれない。定かではありません。

そしてもう一つ、家畜の群れと言えば、ニーチェが提唱した「畜群」という考え方があります。それは、不和雷同する民衆のことをさしており、ニーチェはこれを批判しました。

豚の群れっていうのは、漱石から見た「日本の考えナシの大衆」「質の高いものと俗っぽいものの区別もない群衆」が、見境なく流されて、押し寄せて、自分を飲み込もうとするみたいなイメージがあったのかもしれません。

「あーやだやだ、あんな考えなしの連中」と思いつつ、漱石自身もそういう大衆を相手に文学を書いてお金にしなきゃいけないので、悩ましいところですね。

とすると、豚にやられた庄太郎が「もう助かるまい」ことは、何を表しているんでしょうか。倒しても倒しても押し寄せてくるやつら。崖に飛び込む、そのぐらいの覚悟でやらなければ、大嫌いな豚に舐めらてしまう。そして最後、庄太郎は何に敗北したのでしょうか。漱石も、その時代の何かに無力感を感じていたのかもしれません。

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