知らなかった仏教

 

今日は、既に公開されている、芥川龍之介『蜘蛛の糸』について、
少しお話ししようと思います。

蜘蛛の糸

『蜘蛛の糸』……調べてみると、歌手の中島●嘉さんの歌のタイトルになっていたりして、
中島美●さんのトレードマークが蓮だったりして、
なんだかそれを意識したようなダークな表紙絵になってしまいました。

 

ところで、みなさん、蓮=ハスと、睡蓮=スイレンの違いって御存知でしたか?
わたしは知りませんでした。
極楽に咲いているのは、蓮。
モネが描いた有名な絵は、睡蓮。
睡蓮は、水面すぐに花が咲いていて、同じく水面に浮かぶ葉っぱに切れ目があります。
蓮は、茎が水上にスッと伸びていて、葉っぱに切れ目がありません。
なので、表紙の絵は、蓮です。

 

さて、実は、今回、『蜘蛛の糸』のテキストを配信するにあたり、
『竹の木戸』の時よりも、苦労がありました。
劇団ののメンバー、実は、日本人でありながら、
キリスト教系、且つ欧米文化の色濃い、学者の家庭で育った人が多いんです。
仏教の教えや慣習に、ほぼ馴染みがありません。
お盆、お葬式、史跡などで、文化的な知識として多少知っているのみ。
これは、まずい!
間違えたことを書いたら大変だ。
宗教は、間違えたらえらいことだ。
と、思って、ちょっと仏教について勉強してみました。

 

すると、なんということでしょう。
そもそも、芥川が間違えて書いていたっていうことが判ったんですね。
ちょっと〜、龍之介〜。

 

ということで。
どこが変なのかを書きます。

 

まず、このお話を読むと、ナチュラルに感じ取るのが、
我々人間界の上空、雲の上?……とにかく、天の上に極楽があって、
お釈迦様が池を覗き込むと、その下の方に、
地上の人間界を突き通して、更にその下に、地獄が見えてるのかな?
っていう位置関係ですよね。
お釈迦様が、カンダタが蜘蛛を助けたのを見ていたのも、
「おてんとうさまは、いつも、天の上から我々を見ている」
みたいな位置関係を感じました。

 

これ、我々はすっごくすんなり受け入れちゃって、納得しちゃうんですけど、
実は、もう既にここから間違いなんだそうです。

 

何故、我々はこの極楽と地獄の位置関係に違和感を感じないのか。
それは、恐らく、他の宗教の影響ではないかと考えています。
こんなイメージでしょうか。

 

 

まず、神道。
これは野田秀樹さんの作品を舞台で公演した際にも解説しましたが。
我々が住む人間界を「豊葦原(とよあしはら)」と言います。
そして、神々が住む天上の世界を「高天原(たかまがはら)」と言います。
読んで字のごとく、天に広がっているんですね。
昔はこの天から地上にわんさか神様が降りて来て地上で暮らしていた、
その頃のお話が、日本書紀とか古事記なわけです。
そして地下にあるのが、黄泉。
洞窟みたいな入口、「よもつひらさか」という坂から地底へ、
真っ暗で不気味な死者の世界に入って行きます。
特に「生前に善い行いをしたから死後は天上へ」というわけではないようです。

 

次にキリスト教です。
「天国」「地獄」は訳語なので正確には違う意味ですし、
教派によっても細かい定義は変わって来てしまうのですが。
基本的には、天国は天の上にあり、
祈りでも「天の父なる神様」などと言います。
地獄は、死後の世界に責め苦を負う場所、悪魔が住む場所として知られますが、
西洋絵画では、やはり地底や地下の暗い絵が多いです。
死ぬと「最後の審判」を受けて、
生前の罪に従って天国に行くか地獄に行くかが決まります。
当然、天国に行きたい! 地獄はイヤだ!
故に「生きてるうちに地上で徳を積みなさい」と、キリストは言うんですね。

 

じゃあ、仏教で言う、極楽と地獄って、一体なんなんだ!? と疑問が。

 

まず、わかりやすいので、地獄から。

 

皆さん、輪廻転生はご存知ですか。
わたしたちも、この言葉は知っていました。
ただ、やや意味を、はき違えておりました。
なんとなく、結構いい意味で使ってしまっていたんです。
「千の風になって」のイメージで。
「おばあちゃんは死んだけど、またお花とかになって生まれ変わる」みたいな。

 

輪廻転生っていうのは、本当は、
迷いがあるから、死んでもいつまでも生まれ変わっちゃうんだそうです。
6つの世界があって、生前の徳/罪によって振り分け先が決まると。
「これが現世で、これが死後の世界」「あの世、この世」
っていう切り分けもなく、1個1個が、一生一生、高橋一生。
「生き地獄だ〜」とか「この世の地獄だ〜」っていうのは、
まさに「馬から落馬する」「頭痛が痛い」みたいな話になっちゃうみたいです。
カンダタはつまり、人間界にいたんだけど、悪いことしすぎて、
次の生涯では地獄で生きることになった、っていうことです。

 

なので、地獄は6つの選択肢の1つであり、天地、上下は関係はありません。
地面の下にあるなんて、お釈迦様は言っていないらしいです。
概念的な世界だから。
もしあなたが演劇人で、先輩から、
「奈落っていうのは、舞台の下にあるから奈落なんだよ。
奈落っていうのは元々、地獄のことで、奈落は地下だろ?」
とうんちくを述べられたり、
「おい、早く奈落から箱馬取って来いよ!」
とか怒鳴られたりしたら、ドヤ顔で、
「先輩、奈落が舞台の下にあると思ったら大間違いですよ」
と、うんちく返ししてください。
先輩は修行と悟りが足りてません。

 

 

こうやって見ると、人間界って、結構いい所にあるみたいです。
今回あんまり関係無いですが、その上にあるのが、仏教の天国。
紛らわしいのですが、これはキリスト教の天国ではありません。
人間界よりも、怒りとか苦しみが無い世界だそうです。
ただ、悲しみだけはあるようです。

 

ちなみに、帝釈天、梵天、
また、最近イケメンだということで人気を博した阿修羅など、
仏教の守護神と言われている神様たちは、この六道の中に住んでいます。
この辺も、わたしたちが、
「え、ここお寺? 神社? 仏様がお寺で神様は神社でしょ?」
と、混乱する原因の1つかもしれません。
仏教以前の古代インドの宗教の神様と混じったりしている部分もあり、
ヒンドゥー教ともちょっと重なる部分があるそうです。

 

ところでわたしは、以前、上司に、
「生まれ変わっても魚類にだけはなりたくありません!」
と言ったら、
「暇なのかよ! とりあえず早く現世で仕事しなよ。
わたしは子どももいるし、あんたみたいな後輩もいるし、来世どろこじゃないよ」
と言われたんですけど、
わたしの考え方は、畜生界に行きたくないっていうことだから、正解です。
わたしは、仕事をさぼっていたわけではなく、
「あぁ〜、輪廻を抜け出すべく迷いを捨てたいなぁ〜」
っていう高尚な悩みを持っていたっていうことなんですよ。

 

じゃあ、どうやったら、この輪廻から抜け出せるのか。
輪廻の中でグルグルしてる限りは、
魚類になったり地獄に落ちたりするプレッシャーから抜け出せませんからね。

 

輪廻から抜け出すには、ずばり、仏教の修行をして、悟りを開く!
これしかないらしいです。
しかも、仏教をできるのは人間界に生まれた時だけだそうです。
たしかに、一度魚類になっちゃうと、お経とか読むのはちょっと厳しい。

 

修行を完遂して、悟りを全て開くと、仏=如来になって、六道から出られます。
だから、刑事ドラマで死んだ人を「仏様」などと呼んでいますが、
死んだだけだと転生するだけで、修行しないと仏にはなれないみたいです。

 

じゃあ、仏様がいて、守護神がいて、……観音様って……何?
という疑問が湧いて来ました。
これも、我々、よくわかっていませんでしたが、
観音様は、菩薩のうちの1人で、
菩薩というのは、かなり高度に悟りを開いた、仏に近い存在だそうです。
人間に対して、とても慈悲深い存在です。
観音様を女として描く習慣もありますが、そういうわけではないみたいです。
観音菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩などが有名です。
実は、お地蔵様も、あんな可愛い感じですけど、地蔵菩薩。
とってもとっても偉いんですよ。

 

 

では、極楽って何でしょう?
天国とどう違うのでしょう?

 

悟りを開いて仏になると、仏様は、自分の仏国土という国土をつくります。
これが、けがれや苦しみが存在しない「浄土」です。
六道の中の天上界と違って、苦しみも存在しません。
幸せと、楽しみだけ。

 

1如来に1浄土。
そして、仏様って、宇宙に星の数ほど存在しているみたいです。

 

ちなみに、地球が輩出したのは、お釈迦様ただ1人。
みんな、後に続け! って仏教の修行をしているんですね。

 

さて、お釈迦様が住んでるのは、実は無勝荘厳国という浄土です。
あれ!?
極楽浄土は!?

 

実は、極楽浄土は、阿弥陀如来という仏様の持っている浄土なんです。
阿弥陀如来は、全ての仏様の師に当たるお方。
お釈迦様が極楽浄土を自分の庭のようにウロウロしてるのは、おかしい、
っていうことが、わかります。

何してたんでしょうか。
遊びに来てたのかな。

 

つまりですね、落語に喩えますと、
立川談春さんとか、志らくさんとかが、自分の家建てたのに、
談志師匠の家の庭を自分の家だと思って、入り込んで遊んでる、みたいな。

 

……。

 

わかりづらいですね。
今の喩え、キャンセルします。

 

この物語は、元々、インドの『カルマ』の中の『The Spider Web』が原作で、
この和訳に影響され、芥川が更に児童向けに書き換えたものです。
インド哲学がテーマになっているのですが、我々日本人には馴染みが無く、
やはり、芥川が書いた世界観に、どうしても違和感が湧きません。
よく、「キリスト教が現地の土着の宗教と結びついて」などと言いますが、
こういうプロセスを経て、宗教宗派などが枝分かれして行くんだなぁと、
垣間見たような気がします。

 

芥川を選ぶんじゃなかった

皆さんこんにちは、演出、Noahです。
大体いつも演出なんですけど、このブログ。
今日は「演出です」を押し出して執筆したいと思います。
いやどうしたどうした、急に自分出して来たじゃん、って感じですね。
もしかしたら、数十年生きて来て、今、物心が付いたのかもしれません。
フロイト的に言えば、今までは超自我に操られていたと言えます。
確かに今まで、知らない間にお酒を何杯も飲んでいたり、
知らない間に知らないおじさんにおしぼりを投げ付けたりしているので、
その可能性は高いですね。
さっき、自我が覚醒しました。
(さらに…)

たとえ空腹でも

 

夕方、スズキ家の書斎にて、フリートークの収録を行いました。
芥川の『蜘蛛の糸』と『蜜柑』についてです。

 

まずは、収録した音声を確認して、内容を思い出します。
トラックが沢山あるので、どれがどれかを選別するのが大変です。

 

台本と見比べながら、音声を聞いて、内容を確認します。

どうでもいいことですが、ここで発覚したのは、
『蜜柑』は、何も振り返らずに一発録りしたため、
「死亡広告」という単語を、がっつり「死亡報告」と読んでいたことです。
録り直しせず、編集で裏技を使ったので直っていますが、
耳を澄ませて聞いたら、違和感を発見できますよ!
(一体、何のお知らせでしょうね)
そして、「死亡広告」は語彙にも載っているので、チェックしてみてね!
(今のは重要なお知らせです)

 

吉田さんは、結構、何も覚えていません。
稽古のこと、収録した時のこと、作品の内容。
この時はお腹が空いたことで頭がいっぱいです。

ですが、マイクを握ると急に喋り出すので、とても不思議です。
何かのスイッチが入るそうです。